音の壁への挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 04:11 UTC 版)
「チャック・イェーガー」の記事における「音の壁への挑戦」の解説
戦後は創設されたアメリカ空軍に移り、NACA(NASAの前身)の高速飛行計画に基づいて作成された機体ベルX-1(当時の呼称はXS-1)のテストパイロットに選出された。 1947年10月14日、イェーガーが搭乗するXS-1は高度6,100 mで母機から切り離され、2基のエンジンに点火して緩上昇に移行。続いて残りの2基にも点火し、高度10,670 mをマッハ0.92で通過した。高度12,800 mに到達する前にエンジン2基をオフにして水平飛行に移り、その後再びエンジンを1基オンにして計3基で水平飛行を行った。その結果マッハ1.06を記録、人類初の有人超音速飛行となった。音速突破時に予想されていた衝撃波による振動もほとんど無く、意外なほどにあっさりと音速を越えてしまったという。彼がXS-1で飛行して通算50回目での記録であった。 2日前に彼は落馬で肋骨を骨折していたが、そのことを隠したままXS-1に搭乗しようとした。しかし、搭乗口を閉めるために前かがみになることが困難であった。このことが明らかになるとテスト飛行から降ろされるため、同僚のジャック・リドリー(英語版)大尉 (Captain Jack Ridley) にのみ事実を伝え、解決方法を求めた。リドリーはモップの柄を使うことを提案し、これにより無事搭乗口を閉めることができた。このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれている。また彼はP-51に続きXS-1にも、妻の名前にちなんで "グラマラス・グレニス (Glamorous Glennis) " という愛称を付けていた。現在、この機体はワシントンD.C.の国立航空宇宙博物館に展示されている。 その後も最高速度記録を塗り替え続け、1947年11月6日にはマッハ1.36、1948年3月26日にはマッハ1.45を記録した。1953年からはX-1に関わったスタッフと共に、水平飛行でマッハ2の突破を目指す計画に参加した。しかし、11月20日にD-558-2 スカイロケットとパイロットのスコット・クロスフィールドが、先に記録を達成してしまう。イェーガーとリドリーは、これの記録を打ち破ることを誓い、"Operation NACA Weep"と名づけて挑み続けた。1953年12月12日、X-1Aでマッハ2.44を記録し、最速の男の称号を取り戻す。なおX-1Aがマッハ2.44を記録した直後に機体が左に傾き、きりもみ状態で降下を始めてしまう。あわや墜落かという事態になったが、高度8,800 mあたりで機体を立て直すことに成功し、墜落は免れた。
※この「音の壁への挑戦」の解説は、「チャック・イェーガー」の解説の一部です。
「音の壁への挑戦」を含む「チャック・イェーガー」の記事については、「チャック・イェーガー」の概要を参照ください。
- 音の壁への挑戦のページへのリンク