韓国プロ野球発足後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 17:36 UTC 版)
しかし、1982年に韓国プロ野球(KBO)が発足すると実業団時代の手腕を買われ、OBベアーズの投手コーチに就任。1984年には監督へ就任した。 OB退団後も、万年最下位チームだった太平洋ドルフィンズ(1988年 - 1989年)、サンバンウル・レイダースなどをプレーオフに引き上げ、2002年には不振に苦しんでいたソウル本拠の人気チームLGツインズを戦力の整っていない状況にもかかわらず、韓国シリーズにまで進出させるなど、Bクラスチームの建て直しについては右に出るものはないと言われて、今まで在任したすべてのチームをポストシーズンに導いた実績を誇る。 ただ、10数年の監督生活の間、通算勝利数は2位であるが、2007年までは韓国シリーズ優勝を経験していないことから、一般的には「土台作りから始めるべきであるBクラスチーム向きで、優勝を狙うチームには合わない」と評されてきた。そして、彼がいた時はチームが目を見張るような巻き返しを見せながら、彼が去った後は故障者続出でチームがBクラスに逆戻りするパターンを繰り返すことや、毎試合のごとく信頼できる特定の中継ぎ投手を軸に複数のリリーフのつぎ込む試合運びのため、勝利のために選手、特にピッチャーを酷使するという評価もある。他の専門家にも一目置かれる眼目と選手たちへの面倒見のよさから、赴任中の所属チームの選手たちとの信頼関係は非常に厚く、選手生命にも影響しかねない負傷を持っている選手が自分を省みず彼のために試合に強行出場して結果を残したこともあるほど。そして前述のように無名の選手を鍛えて使え物にさせる手腕に恵まれたことなどで彼がチームを去った後でも彼を慕う選手は多い。だが、いつも任せられるチームが戦力の整っていない崩壊寸前のチームや財政的に苦しい弱小チームであったため、球団フロントとは戦力補強に大幅な支援をしつこく要求することで衝突が多く、いつもギクシャクしていた。これが彼がいつもBクラスチームの再建の手腕を振るって結果を残しながらも、契約満了の前に解任される主な原因であると言われる。 特に、2002年シーズン後は、前年6位のLGツインズをAクラスに引き上げ、準プレーオフ、プレーオフを勝ち抜いて、韓国シリーズでも巨大戦力を誇る三星ライオンズをも手こずらせる戦いぶりを見せた。この一戦で韓国シリーズ10回優勝を達成した敵将の金応龍をして「作戦や投手交代、代打起用などの采配が怖いほど当たりすぎて、まるで野球の神様と対敵するような思いをさせられた」と言わしめた。しかし、韓国シリーズの終了後、新しく就任した球団社長が彼のスタイルである管理野球が嫌いだった上に、自らと親交がある李廣煥前監督をチームに復帰させるため、「君の野球はLGツインズの(追求する)野球ではない」という理解しがたい理由をつけて彼を解任したことから、球団はファンの激しい批判の嵐に会った。彼の退団のあと、チーム成績は3年連続の6位と全く振るわず、2006年は球団史上初の最下位に転落した。類稀なBクラスチームの再建の手腕のため、フリーの時は、ほぼ毎年シーズンオフに不振に陥った下位チームの新監督候補として囁かれる。たとえば、2005年のオフ、「プレイオフ進出さえできればほぼ毎試合満員御礼が出来る」と言われながら最近低迷ぶりが目について観客動員に苦戦したロッテ・ジャイアンツや9度の優勝を誇りながら昔の面影を失いつつある伝統の名門、起亜タイガースの監督候補としてマスコミに取り上げられることもあった。 この間、1991年には、日韓プロ野球スーパーゲームで韓国チームのコーチを務めた。
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