青森、北海道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 07:42 UTC 版)
「ユルバン・ジャン・フォーリー」の記事における「青森、北海道へ」の解説
1881年(明治14年)12月、すでに東京を離れ札幌に来ていたフォーリーは、1882年(明治15年)1月15日、札幌に伝道所を開設する。また弘前では教会建設のために土地を購入した。その後、東京に戻りフォーリーの後任としてジャン・ピエール・レイが孤児院を担当することになったので、1883年(明治16年)の8月頃、正式に函館に赴任した。函館にはすでにペティエが赴任しており、函館地区をペティエ、その他の北海道全域と千島、青森県全域という広大な地域をフォーリーが受け持つ事となった。青森・北海道においての布教活動は順調に進み信徒も順調に増え、1884年(明治17年)には青森に伝道所を開設し、その合間にも植物採集を行った。 1887年(明治20年)、パリ自然史博物館から通信員として委嘱されたことにより、植物採集の範囲はさらに広がった。また弘前地方のリンゴ栽培家と交流のあったフォーリーは、当時、形を仕立てず自然のままに育てる自然仕立が最良と考えられていた時代に整枝剪定思想を指導した。この剪定方法は改良された後「一文字刈り」と呼ばれ、害虫や病気には有効だったが、収穫量があまり思わしくないという理由からあまり普及しなかった。しかし、これを境に様々な剪定方法が生まれ、自然仕立から整枝剪定へと変わっていった。またフォーリーは西洋ブドウの栽培指導、ブドウ酒の醸造方法、リンゴジャムと缶詰の製法、さらに桜桃や西洋野菜の栽培指導を行った。同年5月には、以前購入した弘前の土地に聖堂と集会所を建設した。建設費用はフォーリーがパリ自然史博物館に標本を送って得た謝礼金が充てられた。 1891年(明治24年)4月17日、日本北緯使徒座代理区より北海道と東北地方を分離して函館使徒座代理区が設立され、同年6月15日には函館司教区に昇格し、教区長にベルリオーズが就任した。ベルリオーズはフォーリーの担当地域が広く、また植物採集活動の範囲も次第に広域になったことを考慮し、1890年(明治23年)から1894年(明治27年)の間、青森県を他の司祭の担当とした。1893年(明治26年)には「新撰日本苔蘚譜」を著作したが、長年休む間も無く植物採集活動と布教活動を行っていたため、フォーリーの健康状態は少しずつ悪化した。
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