電車運転の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:39 UTC 版)
1930年3月には東京駅 - 横須賀駅間58.2km で電車運転を開始し、30分(ラッシュ時15分)間隔・東京駅 - 横須賀駅間68分の運行となった。横須賀線用の32系電車は1930年10月からの導入となったため、同系列が揃うまでの間は中央線や京浜線から捻出した、半鋼製のモハ30形(モハユニ30形を含む)、モハ31形、木造のクハ15形、サロ18形、サハ25形、サハ26形の計101両を使用し、当初は基本6両・増結3両の最大9両編成で運行された。 当時、私鉄では東武鉄道や大阪電気軌道・参宮急行電鉄(現在の近畿日本鉄道)で電車によって100km以上の長距離運転が始められ、速達列車を運行する例も見られ、国鉄(当時の運営組織は鉄道省)においても新橋駅 - 小田原駅間の電化に際して電車運転を計画し、これに使用するために1922年から二等車・三等車とも2扉固定クロスシートとしたデハ43200系電車を製造していたが、関東大震災によりこれを断念しており、電車は近距離路線でのみ運行されて省電・便電(びんでん)・ゲタ電などとあだ名されていた。横須賀線では投入した32系電車に固定クロスシートを採用するなどの施策をとり、優等旅客向けの二等車(現在のグリーン車)も当初より連結されたほか、基本4もしくは5両・増結3もしくは2両の4 - 7両編成もしくはこれに皇族御乗用車を増結した9両編成という長編成で運用されたことも特徴となっている。この際の電車運転が、後の80系電車(湘南電車)の開発に影響を与えたとも言われている。戦前の二等車には、海軍高官のほか、逗子、鎌倉などの比較的裕福な家庭の子女が東京の学校に通うために女中などの付添い人とともに乗車する姿が多くみられた。しかも着席位置はそれぞれ決まっており、乗降口からの位置関係による序列も存在したとされる。 第二次世界大戦中には、一部の鉄道路線が不要不急路線として休止・廃止や単線化され、金属供出にも応ずる一方、横須賀線は1944年に横須賀駅から久里浜駅までを延伸するなど、戦前・戦中の横須賀線は軍事上の重要路線として格別の扱いを受けた。一方で同年、決戦非常措置要綱に基づき二等車の連結は廃止された。 戦後、鎌倉や逗子、横須賀や久里浜などの三浦半島の生活路線として再スタートを切った横須賀線は、かつてのような軍事路線としての需要はなくなったが、車両の世代交代により、1968年に新性能化され、その後も運転の高頻度化や編成の15両化などで、高度経済成長期を経て増加する通勤需要に対応する。
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