隷書への展開と衰微変質とは? わかりやすく解説

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隷書への展開と衰微・変質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 05:48 UTC 版)

篆書体」の記事における「隷書への展開と衰微・変質」の解説

そのような国の意図とは裏腹に小篆はすぐにその形を崩し始める。法治国家である秦では、下層役人現場で事務処理を行うことが多くなった。彼らにとって複雑な形をした小篆きわめて書きづらいものであり、自然走り書き多く発生する結果となった。このことが小篆書体単純化簡素化を生み、やがて隷書生むことになるのである隷変)。 紀元前206年に秦が滅亡すると、楚漢戦争経て前漢立った前漢とそれに続く後漢では公式書体として小篆ではなく隷書採用されることになったが、このことには小篆煩雑さを避けるためという意図があった。またこのような筆記手段としての役割優先した文字政策は、「権力象徴」として存在し続けていたそれまで文字概念を完全に覆すものであり、甲骨文以来続いた古代文字」の時代終焉を示すものでもあった。 一時新代に公式書体返り咲いたが、新の滅亡とともに再び公式書体から外され以後しばらくの間小篆は「公的証明」の名残から官印公印用いられる他は、ほとんどの場合装飾的に瓦や鏡などの文様、碑や帛書表題などに用いられるにすぎなくなる。 また後漢代の「祀三公山碑」や「嵩山三闕銘」、三国時代の呉における「天発神讖碑」「封禅国山碑」のように碑も少数ながら存在したが、いずれも天や神への願文天のお告げ示した内容で、小篆権力性がいつの間にか天や神に通じ性質のものへ拡大され、「神へ祈るための文字」として認識されるようになっていたことが分かる漢代以降小篆は、その字形権力性から性質変化することで、ごく一部除いて装飾祭祀のための特殊な文字として認識されるようになったそのような認識変化がやがて文字そのものにも及ぶ。当初漢代では秦から時代遠くないこともあり、せいぜい隷書書き方入ったり線を角ばらせたりする程度変化崩れ済んでいた(漢篆)。しかし漢末や六朝時代以降になると完全に混沌状態になり、小篆から大量装飾書体生まれるなど、どんどん本来の姿から遠ざかっていくことになる。 その中でわずかに後漢代訓詁学第一人者許慎が、儒学研究一環として小篆を「古代文字」として真正面から扱い小篆中心とした字書説文解字』をものして字義などの解釈をなしたが、あくまで学問的追究であり、書における展開は見られなかった。

※この「隷書への展開と衰微・変質」の解説は、「篆書体」の解説の一部です。
「隷書への展開と衰微・変質」を含む「篆書体」の記事については、「篆書体」の概要を参照ください。

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