間宮派
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「用心棒日月抄の登場人物」の記事における「間宮派」の解説
間宮作左衛門(まみや さくざえもん) 【第1巻】 中老。43歳(又八郎が帰国した年)。大富丹後と対立している。帰国した又八郎の証言によって、大富派を圧倒し、ついに大富を上意討ちで討ち果たした。 【第2巻】 密かに又八郎を呼び出し、大富静馬から前藩主毒殺に絡む陰謀の証拠となる書類を奪い返すよう密命を与えた。ただし、資金は江戸までの路銀程度しか与えず、金に困ったときには頼るよう名を挙げた江戸屋敷の長瀬や土屋も、藩と又八郎のつながりが敵に露見することを恐れてか、次々と国元に呼び寄せてしまった。 【第3巻】 未だに中老職に留まっているが、藩執政の中心人物として権力を振るっており、間もなく家老職に昇るだろうと言われている。しかし、前回の又八郎の功績に対して何ら報いることをせず、ただ旧禄に戻しただけに止めたため、又八郎はますます吝嗇家との印象を強めている。 大富派に対してはおおむね寛容な処分に止め、特に連判状の筆頭に名を連ねていた寿庵保方については、単なる名前だけの筆頭者だと高をくくって、面会して釘を刺しただけだった。そのため、後に江戸嗅足組への刺客を討ち果たした又八郎や、谷口権七郎の報告を聞いて愕然とすることになる。 寿庵が藩主をお忍びの鷹狩りに誘った際、貝の吸い物の中に毒が入っていることを看破した。ただ、又八郎が後にどうして吸い物の中に毒が入っていると分かったのかと尋ねると、ただの勘だと答えた。 鷹狩り騒動の後、寿庵派に対して厳しい処分を断行すると共に、自身は筆頭家老の地位に就いた。そして、又八郎にも20石を加増した。 土屋清之進(つちや せいのしん) 【第1巻】 又八郎と同じ藩に仕える武士で、江戸詰になったばかり。剣術は下手で、かなりの酒好き。又八郎の脱藩のことは知っていたが、平沼喜左衛門が彼に斬られたことは知らなかった。元禄14年の秋に藩主が死んだことと、由亀が縁談をすべて断って又八郎を待っていることを教えてくれた。 又八郎が吉良家の用心棒に入っていたとき、由亀からの手紙を届けるとともに、間宮中老が又八郎の帰国を望んでいることを伝えた。俳諧好きで、句会で出会った赤穂浪士から、2日後に討ち入りがあることを又八郎に伝えるよう伝言された。 【第2巻】 江戸屋敷ではお納戸役を務めた。間宮中老は、暮らしの金に困ったら、土屋か小姓頭の長瀬権六を頼るよう又八郎に語ったが、2人とも又八郎と入れ替えに帰国していた。おかげで、又八郎は、自分で金を稼ぎながら探索もするという、厳しい状況に置かれてしまう。 後日、一時的に江戸に戻ってきて、早く密命を果たすようにという間宮の言葉を又八郎に伝えてきたが、その時も間宮からの軍資金を預かってはいなかった。 野島忠兵衛(のじま ちゅうべえ) 【第2巻】 大富丹後に変わって筆頭家老になった。間宮、山崎と共に藩政を動かしている。又八郎の脱藩の真意を了解している数少ない人物の一人。 【第3巻】 谷口権七郎の調査により、寿庵保方から金が流れ、間宮を裏切って寿庵側についたことが明らかになる。鷹狩り騒動の後、責任を問われて筆頭家老職から退けられた。 山崎嘉門(やまざき かもん) 【第2巻】 間宮中老を助ける組頭で、40歳を過ぎたばかり。かつては名郡代と呼ばれた明晰な人物。又八郎の脱藩の真意を知っている。しかし、寿庵保方の策略により、郡代時代の些細な失敗の責めを負わされ、隠居に追い込まれた。
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