間宮派とは? わかりやすく解説

間宮派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 04:14 UTC 版)

用心棒日月抄の登場人物」の記事における「間宮派」の解説

間宮左衛門(まみや さくざえもん) 【第1巻中老43歳(又八郎が帰国した年)。大富丹後対立している。帰国した又八郎の証言によって、大富派圧倒し、ついに大富上意討ち討ち果たした。 【第2巻密かに又八郎を呼び出し大富静馬から前藩主毒殺に絡む陰謀証拠となる書類奪い返すよう密命与えた。ただし、資金江戸までの路銀程度しか与えず、金に困ったときには頼るよう名を挙げた江戸屋敷長瀬土屋も、藩と又八郎のつながりが敵に露見することを恐れてか、次々と国元呼び寄せてしまった。 【第3巻未だに中老職に留まっているが、藩執政中心人物として権力振るっており、間もなく家老職昇るだろうと言われている。しかし、前回又八郎の功績に対して何ら報いることをせず、ただ旧禄に戻しただけに止めたため、又八郎はますます吝嗇家との印象強めている。 大富派に対しておおむね寛容処分止め、特に連判状筆頭名を連ねていた寿庵保方については、単なる名前だけの筆頭者だと高をくくって面会して釘を刺したけだった。そのため、後に江戸嗅足組への刺客討ち果たした又八郎や、谷口権七郎報告聞いて愕然とすることになる。 寿庵が藩主お忍び鷹狩り誘った際、貝の吸い物中に毒が入っていることを看破した。ただ、又八郎が後にどうして吸い物中に毒が入っていると分かったのかと尋ねると、ただの勘だと答えた鷹狩り騒動の後、寿庵派に対して厳し処分断行すると共に自身筆頭家老地位就いた。そして、又八郎にも20石を加増した。 土屋清之進(つちや せいのしん) 【第1巻又八郎と同じ藩に仕え武士で、江戸詰になったばかり。剣術は下手で、かなりの酒好き又八郎の脱藩のことは知っていたが、平沼喜左衛門彼に斬られたことは知らなかった元禄14年秋に藩主死んだことと、由亀縁談をすべて断って又八郎を待っていることを教えてくれた。 又八郎が吉良家用心棒入っていたとき、由亀からの手紙を届けとともに間宮中老又八郎の帰国望んでいることを伝えた俳諧好きで、句会出会った赤穂浪士から、2日後討ち入りがあることを又八郎に伝えるよう伝言された。 【第2巻江戸屋敷ではお納戸役務めた間宮中老は、暮らしの金に困ったら、土屋小姓頭長瀬権六を頼るよう又八郎に語ったが、2人とも又八郎と入れ替え帰国していた。おかげで又八郎は、自分で金を稼ぎながら探索もするという、厳しい状況置かれてしまう。 後日一時的に江戸に戻ってきて、早く密命を果たすようにという間宮言葉又八郎に伝えてきたが、その時間宮からの軍資金預かってはいなかった。 野島忠兵衛(のじま ちゅうべえ) 【第2巻大富丹後変わって筆頭家老になった間宮山崎と共に藩政動かしている。又八郎の脱藩真意了解している数少ない人物の一人。 【第3巻谷口権七郎調査により、寿庵保方から金が流れ間宮裏切って寿庵側についたことが明らかになる鷹狩り騒動の後、責任問われ筆頭家老職から退けられた。 山崎嘉門(やまざき かもん) 【第2巻間宮中老助け組頭で、40歳過ぎたばかり。かつては郡代呼ばれた明晰な人物又八郎の脱藩真意知っている。しかし、寿庵保方の策略により、郡代時代些細な失敗責めを負わされ、隠居追い込まれた。

※この「間宮派」の解説は、「用心棒日月抄の登場人物」の解説の一部です。
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