開戦・新田軍と楠木軍の分断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 23:42 UTC 版)
「湊川の戦い」の記事における「開戦・新田軍と楠木軍の分断」の解説
25日の辰刻(午前8時頃)、海から足利尊氏の率いる軍が湊川に到達し、新田・楠木連合軍と対峙した。他方、陸からも足利直義を司令官とする陸上軍主力の大軍が西国街道を進行し、接近しつつあった。海からの大船団を『太平記』は「呉と魏が天下を争った赤壁の戦いを凌ぐ」とさえ述べているが、義貞も正成も足利方の大軍に対して少しもひるむことはなかったという。 水軍を用意できなかった新田軍は、脇屋義助を将に一族23人、総勢5千余騎を経島に、大館氏明を将に一族16人、総勢3千人を灯炉堂の南の浜にそれぞれ布陣させ、陸地からの敵に備えさせた。義貞自身は総大将であり、諸将への軍令を出すため、和田岬に2万5千の兵で布陣した。一方、楠木軍は他家の軍勢を入れず、700余騎で湊川西の宿(湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山)に布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた。 この義貞の陣立ては、「不思議な陣立て」であったと言われる。義貞は南から上陸してくる足利軍の軍船に背中を向けるばかりか、北に陣取った楠木正成と脇屋義助が撃破されてしまうと、東西南の三方向が海に面している和田岬が足利軍に完全に包囲され退路をふさがれてしまう形になる。義貞はあえて「背水の陣」を敷いて、配下に決死の覚悟で合戦に挑むよう促したと推測される。 やがて、海と陸から進んできた足利軍は互いに近づいて攻め寄せ、海の軍勢が太鼓を鳴らして鬨の声を上げれば、陸にいた軍勢もまた呼応して鬨の声を上げた。他方、官軍もまた楯の端を鳴らして箙を叩き、鬨の声を上げた。『太平記』によると、互いの鬨の声は、南は淡路の絵島ヶ崎(淡路市絵島)、鳴門(徳島県鳴門市)の沖、西は播磨路須磨(神戸市須磨区)の浦、東は摂津国生田の森(神戸市三宮、御影付近)にまで、300余里四方に響きわたるほどであったという。 『太平記』によると、新田方の本間重氏が先に海の足利方に矢を射かけ、海の足利方も尊氏の命を受けた佐々木顕信が射返す、いわゆる矢合わせが行われた。その後、海から200余騎が経島に押し寄せて上陸したが、脇屋義助は500余騎で包囲し、左右両側から射てこれを激しく攻撃した。細川定禅は200余騎が皆討ち死にしたのを見て上陸を命じ、大船700艘からなる四国の軍勢が紺部の浜に上陸しようとした。兵庫島周辺三ヶ所に展開していた5万余騎は足利軍を迎え撃ったが、多勢に無勢であり、周辺の船着場は防御が手薄になったため、中国、九州の兵船60余艘が和田岬に押し寄せた。 少弐頼尚は和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。また、斯波高経の軍は山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回った。細川水軍は義貞達を引き付けるためにあえて水軍を東へ移動させ、東側から上陸しようと見せかけた。義貞、義助らが誘導されてきたところを、船団の後方の軍船が方向転換して和田岬から上陸し、新田、楠木の両軍を分断した。義貞は先頭に立って東側に上陸しようとする細川水軍こそ尊氏の本隊だと誤認していたようだが、実際には尊氏は方向転換して和田岬へと上陸した最後尾の軍船に乗船していた。 細川定禅が海路を東進し生田の森から上陸すると、義貞は退路を絶たれる危険を感じて戦線を離脱して東走し、楠木軍は孤立した。ここで誰も居なくなった和田岬から、悠々と尊氏の本隊が上陸した。合戦の趨勢は細川水軍の突撃が契機となって、一気に足利有利に傾いた、と山本隆志は評している。尊氏の奇襲作戦は奏功した。
※この「開戦・新田軍と楠木軍の分断」の解説は、「湊川の戦い」の解説の一部です。
「開戦・新田軍と楠木軍の分断」を含む「湊川の戦い」の記事については、「湊川の戦い」の概要を参照ください。
- 開戦新田軍と楠木軍の分断のページへのリンク