鎮圧開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 17:15 UTC 版)
3月下旬、共和国軍および義勇軍の部隊が革命鎮圧の為にルール地方へ向かった。皮肉にもこの鎮圧部隊にはカップ一揆に対する支持を表明した軍人や、同様に支持を表明していた義勇軍組織であるフォン・レーヴェンフェルト海軍旅団(ドイツ語版)(Marine-Brigade von Loewenfeld)やフォン・アウロック義勇軍(Freikorps Aulock)なども参加していた。派兵総数はドイツの発表によると歩兵26個大隊、騎兵13個中隊強、砲兵19個中隊強の規模であり、少なく見積もっても3万人を超えていた。フォン・ヴァッター将軍指揮下の鎮圧部隊はミュンスターに司令部を設置し、ルール地方北部から侵攻を開始を開始した。 3月23日にはフォン・エップ将軍率いる共和国軍第21旅団(Reichswehrbrigade 21)がハムに到達している。3月31日、ハム=ヘリンゲン(ドイツ語版)およびハム=ボックム=ヘーフェル(ドイツ語版)にて共和国軍と赤軍の銃撃戦が発生する。4月1日正午、ハム=ペルクム(ドイツ語版)にて共和国軍と赤軍が衝突、双方に大量の死傷者を出す激戦となった。4月2日、共和国軍は赤軍を駆逐しつつ西方からベルクカメン(ドイツ語版)に向かった。4月最初の週だけで150人から300人の労働者が死亡している。4月6日、共和国軍が赤軍の中枢であったドルトムントに到達。これにより赤軍は事実上壊滅した。 一方でこの共和国軍の行動に対し、フランスはヴェルサイユ条約43条違反であると宣言した。フランスはイギリスの反対を押し切って4月6日から軍を派遣し、フランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの五都市を占領した。ベルギーはフランスの行動を支持してともに軍を派遣したが、イギリスはフランスの行動に激怒し、両国関係は英仏協商締結以来、最悪の状態となった。 鎮圧部隊に同行した共和国軍の野戦裁判所(Standgerichte)は家宅捜索と容疑者の逮捕を行ったが、その折に大量の死刑判決および執行が行われている。逮捕者の中には武装していた為にその場で射殺されたり、抵抗を試みて銃撃された者もいる。4月3日にはフリードリヒ・エーベルト大統領が野戦裁判所の解散を命じており、4月12日にはフォン・ヴァッター将軍より将兵に対して「違法行為」の禁止が下達されている。しかし12日以降も、多くの赤軍兵士が「脱走を試みた為に」射殺されている。 その後、英国軍によりノルトライン=ヴェストファーレン州のベルギッシェス・ラント(ドイツ語版)への侵入がヴェルサイユ条約に違反する可能性がある旨の警告が行われ、共和国軍は進軍を中止した。一方でフランスはイギリスの撤兵要求に対して、ドイツが撤兵するまで占領を続けると回答し、共和国軍が撤兵した後の5月17日まで占領を続けた。
※この「鎮圧開始」の解説は、「ルール蜂起」の解説の一部です。
「鎮圧開始」を含む「ルール蜂起」の記事については、「ルール蜂起」の概要を参照ください。
- 鎮圧開始のページへのリンク