鉄道開通から空襲まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 03:48 UTC 版)
「渋谷スクランブル交差点」の記事における「鉄道開通から空襲まで」の解説
1885年3月、東海道線と東北線を接続する品川-赤羽間の品川線開通と共に、渋谷駅がひっそりと開業したが、当時の駅舎は現在の位置より200メートルほど南に置かれ、一帯は渋谷川に沿って南北に開けた農村集落に過ぎなかった。しかし日清・日露戦争を経験した明治半ば以降になると、手狭になった都心から郊外への兵営の移転や、郊外での兵営の新設が相次ぐようになり、目黒や駒場の大山街道沿いには騎兵実施学校、近衛輜重兵営、騎兵第一連隊兵営、陸軍獣医学校などが、さらに先の世田谷には陸軍第二衛戍病院、野戦砲兵第一旅団司令部、近衛野戦砲兵営、野戦砲兵第十三、十四、十五連隊兵営などが続々と設置されるようになった。そしてそれらの兵士たちが休日に繰り出す歓楽地として、また渋谷駅があり地方からの便がよいことから入営・除隊の送迎に集う場として、この交差点を含め道玄坂から宮益坂にかけての一帯は東京西郊の盛り場に発展しはじめた。1907年に玉電がそれらの兵営をつなぐようにして渋谷まで開業したことも、そうした渋谷の賑わいを後押しした。 1921年、山手線の旅客輸送力増強を目的とする旅客線と貨物線の分離工事および宮益坂下の踏切の高架化工事に伴ない、渋谷駅はほぼ現在の位置に造られた新駅舎へ移動し、この交差点は初めて渋谷駅と相対して行き来できるようになった。さらに高架化によって大山街道の往来が自由になったため、それまで宮益坂下を終点としていた東京市電は1922年に山手線のガードをくぐるように延長され、渋谷駅西口正面(現在のハチ公前広場)が新しい終点になった。これにより渋谷駅近傍から青山・都心方面への便が格段に向上し、国電と市電の乗り継ぎ場として多くの人が行き交うようになったガード下周辺には飲食店が立ち並んだ。 … しかし(市電の)開通一年後になって、駅付近の人通りが多くなったこと、通行人の構成が変って来たことが子供にも意識されるようになる。国電と市電から吐き出される人数が、いちどに街頭に溢れるということは、これまで渋谷のどこにもなかった。 … — 大岡昇平、『少年』 かくして渋谷駅前からこの交差点を経て宇田川町、「渋谷の浅草」と呼ばれた百軒店を擁する道玄坂にかけての一帯は明治末から昭和にかけて渋谷の発展をリードし、旧態依然な家屋の密集地帯になっていた。しかし太平洋戦争末期には建物の強制疎開と空襲によって、鉄筋コンクリートだった一部の建物を除き、それらはほぼ一面が瓦礫と化した。
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