鉄橋「昌平橋」
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1878年(明治11年)3月1日、第一大区十一小区神田柳町より第五大区四小区花房町(現在の万世橋付近)に開橋した橋梁である。太政官布告による、橋銭を徴収する「賃取橋」として架設された。 1875年(明治8年)7月10日、第五大区四小区金澤町(現在の千代田区外神田三丁目)の高橋次郎左衛門が神田小柳町に自費で木橋を新架する旨を出願したが、同年11月12日、石橋での架築が許可され、1877年(明治10年)8月6日、石橋から鉄橋への変更が許可された。同年10月5日に着手し、翌1878年(明治11年)2月15日に落成、同2月26日の東京府布達丁第103號により「昌平橋」と命名された。 経費は1万1355円65銭で、開橋当日の1878年(明治11年)3月1日から1885年(明治18年)12月31日までの満7年10ヶ月間、橋銭の徴収が許可され、その後は東京府へ移管される事となっていた。橋銭は次の通り。但し、非常の節は請求出来ない事とされ、外国人も徴収対象だった。 通行区分橋銭一人立往来 1厘5毛 人力車一人乗1輌 3厘 人力車二人乗1輌 4厘 乗馬1疋(匹) 4厘 駕籠1挺 4厘 牛馬1疋 4厘 通行区分橋銭一疋附馬車1輌 1銭 二疋附馬車1輌 1銭5厘 大車1輌 7厘 中車1輌 5厘 小車1輌 3厘 また、実際の徴収額等は次の通り(金額単位:円)。 年度揚高修繕費給料雑費年1割利子元金へ入高1878年(明治11年)3月 -1879年(明治12年)2月迄 1593.006 1135.500 457.506 1879年(明治12年)3月 - 1879年(明治12年)12月迄 1422.364 74.754 120.916 45.000 889.624 292.070 1880年(明治13年)中 1743.570 130.240 235.000 89.000 1060.542 228.768 1881年(明治14年)度 1824.675 243.000 260.700 103.580 1037.665 179.730 1882年(明治15年)度 1825.160 84.508 253.530 101.830 1019.692 365.600 1883年(明治16年)度 1907.820 61.936 249.000 134.310 983.132 479.442 1884年(明治17年)度 1904.520 98.343 250.500 125.060 935.187 495.450 1885年(明治18年)1月 -1885年(明治18年)4月30日迄 588.480 80.000 18.690 295.213 194.577 合計 12809.595 00692.781 01449.646 00617.470 07356.555 02693.143 1878年(明治11年)3月から1885年(明治18年)4月30日迄の満86ヶ月間の合計は、揚高(徴収額)12809円59銭5厘、 修繕費692円78銭1厘、給料1449円64銭6厘、雑費617円47銭、年1割利子7356円55銭5厘、差引元金の償却高2693円14銭3厘と大幅に債務が残った状態のため、高橋次郎左衛門の相続人・高橋惣三郎から提出された「橋銭収入年限延期願」について、特別な詮議を以って1887年(明治20年)7月まで徴収期間を延期したが、遂に負債は解消せず、「往来頻繁ナル市街中ニ其ノ如キ通行銭ヲ収ムル橋梁アルハ、衆人ノ不便ハ勿論、都府ノ體面ニ於テモ大ニ不可ナルカ如シ」と徴収期間の再延期願も却下され、同年8月1日より往来自由となった。 1900年(明治33年)5月19日、上流部に新たな「昌平橋」が架設されて、本橋は「新萬世橋」(しんよろづよばし)に改称したが、1903年(明治36年)3月8日、鋼製アーチ橋「萬世橋(万世橋)」に架け替えられている。 なお 『東京市史稿』市街篇第62「附記 昌平橋献納」によると、高橋次郎左衛門は資本不足により権利一切を元東京府知事・由利公正に対して包括移転したとされ、昌平橋を架設したのは由利公正としているほか、1879年(明治12年)4月に昌平橋を東京府に献納したとされている。
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