郡立から町立、市立へ(1915-1949)
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「田辺市立図書館」の記事における「郡立から町立、市立へ(1915-1949)」の解説
1915年(大正4年)4月1日、郡会議事堂に西牟婁郡立図書館が設置された。このとき西牟婁郡立図書館は田辺図書館を吸収し、6月25日に田辺図書館の蔵書を引き継いだ。田辺図書館は個人蔵書を一部借用していたため、すべてを郡立図書館へ引き渡したわけではなく、1918年(大正7年)3月末時点の郡立図書館の蔵書数は5,696冊と田辺図書館より減っている。 郡立となっても利用者は少なく、1917年(大正6年)7月の来館者数は134人で官公吏が主であった。その理由を牟婁新報は、郡会議事堂というがらんとした寂しい場所にあることと帯出手続きが面倒であることの2つであると分析し、自由に本を手に取れる大阪商船待合所や郡公園にあった簡易図書館の方が利用者が多いと報じた。少ない利用者の中には南方熊楠がおり、南方は『大清一統志(中国語版)』があるので通っていたが、閲覧室が田辺実業学校(現・和歌山県立神島高等学校)技芸科の女子生徒の裁縫実習室としても利用されていたため、生徒の邪魔にならぬよう通うのを中断したと柳田国男への手紙に綴っている。 1921年(大正10年)に郡制の廃止方針が定まったため、郡立図書館は和歌山県へ移管される予定であったが、和歌山県会は図書館予算を削除したため田辺町へ移管されることになった。1923年(大正12年)に西牟婁郡立図書館は田辺町へ移管され田辺町立図書館となり、蔵書と器具が町へ無償譲渡された。図書館は田辺町役場2階の会議室へ移転したが、書棚には「本に手を触れてはいけません」という貼り紙がされ、事実上利用することができない状態となった。この名ばかりの「田辺町立図書館」が実際に利用できるようになったのは、1929年(昭和4年)の新春に田辺第一小学校創立50周年記念館へ移転してからのことである。 1942年(昭和17年)5月、田辺町が田辺市となったことで田辺市立図書館に改称した。戦中の活動状況は不詳であるが、1946年(昭和21年)6月14日の紀州民報に田辺市立図書館に関する投書があることから、終戦直後の厳しい財政下でも既に活動していたことが分かる。この投書によると、図書館とは名ばかりの不十分な施設で、閲覧料は無料であったが貸し出しを受けるには会員にならねばならず、会員になれるのが田辺市民に限定されていたという。また1948年(昭和23年)8月20日の紀伊民報は「市立図書館を強化せよ」と題した社説を掲載、10数年ぶりに訪れた田辺の図書館は、新刊書はおろか、前に訪れた際には存在したはずの名著も散逸してしまっているとし、市当局の奮起を促すと記した。
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