郡県制から封建制へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
秦の始皇帝によって創始された郡県制は、中央政府から官憲を派遣して法による統治を行う中央集権体制だったが、儒学の発達によって、諸侯が地方に分散して各自独立の統治単位を形成する封建制(周王朝創始)こそが仁政に適すると理論化され定着。以後日本国内の統一法典制定の基盤となる中央集権の確立は、明治維新における版籍奉還を待つことになる。 上世法の中核だった養老律令に代わって中世社会で重きをなしたのが自然発生的な慣習法であり、成文法は特定の重要事項を明文で定めるのが任務であった(御成敗式目など)。明治民法起草時にも参照されている。 さらに、分割相続で所領を細分化すると自己防衛や封建領主への義務履行に支障をきたすことから、室町時代頃には長子相続制が確立。 近世(江戸時代)も同じく各地方の慣習法重視だが、徳川百箇条などの小法典のほか、商工業の発達に対応して単行法が激増。しかし、裁判制度は整備されておらず、後期は訴訟の増加・遅延が目立った。 もっとも、為替手形、小切手、船荷証券につきイタリアと並ぶ世界最古・最高峰の慣習法体系を有していたことが外国人研究者によって明らかにされており、当時の日本法が遅れた、野蛮なものだったとは言えない(福島正夫)。その他の判例法的民法については、身代限、吟味方参照。
※この「郡県制から封建制へ」の解説は、「民法典論争」の解説の一部です。
「郡県制から封建制へ」を含む「民法典論争」の記事については、「民法典論争」の概要を参照ください。
- 郡県制から封建制へのページへのリンク