郡田の初見から近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/17 13:50 UTC 版)
郡田という地名は鎌倉時代の建治2年の大隅国在庁石築地役配符に「曽於郡 郡田名十三丁」という記述が初見であり、大隅国曽於郡のうちであった。 観応3年に足利直冬が野辺盛忠に郡田の地を安堵したと「野辺家文書」に記されている。戦国時代になると福昌寺に「大隅国曽野郡郡田名之内」田畠2町2反を寄進している。 江戸時代には囎唹郡清水郷(外城)のうちであり、郡田村の石高は「天保郷帳」には970石余、「旧高旧領取調帳」では1,319石余と記載されている。1887年(明治20年)5月9日に鹿兒島縣下分郡ノ件(明治20年勅令第7号)が施行されたのに伴い、囎唹郡は東西に分割され、郡田村は西囎唹郡に属することとなった。 明治初期には郡田村の区域内に郡田小学校(のちに郡山小学校、1970年に国分市立国分北小学校に合併)、木原小学校(現在の霧島市立木原小中学校)が公立学校として設置されている。
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