過渡期としての主殿造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
「中世の寝殿造」の記事における「過渡期としての主殿造」の解説
寝殿造の後、書院造が確立するまでの時期を「主殿造」(薄緑)とするが、それは「寝殿造」とか「書院造」に対比出来るような建築様式と云う意味ではなく、まだ書院造とは云えないという程度の過渡期の意味である。あえてそれを分けることで、どの部分から変化が始まっていったかを見ることが出来る。例えば室町将軍邸(画像080)には寝殿造の部分を最後まで残すが、その室町殿の中でも、小御所などは早い時期から「母屋・庇の構造」ではなく、会所はその出現時点で既に寝殿造系ではない。 藤田盟児は、上層住宅においては寝殿以外の小御所、常御所、そして会所が主殿成立の母体であり、更に云うなら中層住宅(小規模邸宅)の性質が上層住宅に普及してゆくという現象が14世紀頃にあるという。主殿の成立は上層住宅に起こった現象ではなく「中層住宅(小規模邸宅)が小規模であったことから生じた機能の集約化がひとつの原因」であり「身分の違いに基づく建築の規模や生活形態の違い」にあったのではないか。つまり主殿を生む変化の要因は、公家や寺家の経済的没落による寝殿造の変質ではないのではないかと云う。 「建築技術の進歩」により、「母屋・庇の構造」から開放され、生活形態に合わせた間取りが可能になり、実際に生活する場、常御所とか小御所、会所はそうして作られ、上級の屋敷では寝殿だけが南半分に公家儀式用の「母屋・庇の構造」が形だけ残されていた。しかし公家儀式に奉仕することはあっても、自らがその主役となることの無い中下級貴族階層の邸宅、下層邸宅では、早くから中門廊(玄関)や、大臣邸では公卿座と呼んだ客座を主殿(主屋)に取り込んでいる。例えば鎌倉時代前期の藤原定家の京極邸(画像060)である。 画像a25は洞院家の子弟が代々院主となった鎌倉時代後期の院家・実乗院岡崎坊である。ここでも二棟廊・透渡殿・小御所がそなわらず寝殿に中門廊が伸びている。ここではこの主屋を寝殿と呼んでおり、側柱と入側柱により屋根を支える構造は維持されているが、間仕切り、部屋割りを見ると「母屋・庇の構造」とは云いにくい略式寝殿である。応仁の乱で儀式用の建物、つまり寝殿が焼失し、再建する余裕も意味も無くなるが、しかし藤田盟児はその寝殿・寝殿造の消滅より前に、書院造の前身である主殿造はほぼ完成していたのではないかという。 藤田盟児は主殿造の特徴に、(1)「母屋・庇の構造」の消滅、(2)柱間と畳の寸法が整合する、(3)主室が接客室である、(4)続き間が使用されている、(5)中門(廊)と公卿間(座)の形式が主殿と同じ、(6)広縁が存在、の6点をあげている。(2)は柱間寸法が7尺前後ということである。(5)は中門(廊)・公卿間(座)は主殿の建物の一部というのが一般的傾向である。
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