進歩連盟の結党
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「ブラジル帝国の歴史」の記事における「進歩連盟の結党」の解説
1857年以降の政党はいずれも議会での支持に欠けており、長続きしなかった。保守党は伝統派と和解派(1860年には「中道保守派」と呼ばれるようになった)に分裂した。保守党員は演説では和解政策を分裂の原因としたが、実際にはカルネイロ・レオンの死後、新しい世代の政治家が現れて権力を欲したことが原因だった。この新しい世代は保守党の老人政治家が権力を手放さなかったために政権に入れなかったと考えた。 1849年にプライエイラの反乱が鎮圧された後残っていた自由党の党員は保守党が解体したようにみえたため、機に乗じて国政に再進出しようとして、1860年には下院で数議席を得ることに成功した。1861年3月2日、ペドロ2世はラ・プラタ戦争でブラジル軍を指揮した保守党員のカシアス侯爵(後に公爵に昇格)を首相に任命した。新内閣は発足早々に、伝統派、中道保守派、自由党の3グループに分裂した下院という難局に直面した。カシアス侯爵は自由党を弱らせて、多数派を確保すべく、伝統派と中道保守派の両方を入閣させた。 しかし、閣内での支持は確保できず、すぐに行き詰まった。カルネイロ・レオン内閣の法務大臣だったジョゼ・トマス・ナブコ・デ・アラウジョ・フィリョ(ポルトガル語版)が中道保守派と自由党の合流を支持する演説を行うと、内閣は崩壊した。演説は大歓迎を受け、中道保守派と自由党は共闘した。これにより内閣は議会で多数を確保できなくなり、ペドロ2世に議会解散と選挙を求めた拒否された。もはや選択肢が残されていない内閣は総辞職した。1862年5月24日、ペドロ2世は中道保守派=自由党連合のサカリアス・デ・ゴイス・エ・ヴァスコンセロス(英語版)に組閣を命じた。党員の大半が元保守派である新党は「進歩連盟」と呼ばれた。 これにより保守党による14年間の国政支配は終わりを告げた。この時期はブラジルの平和と繁栄の時期であり、「政治制度はスムーズに機能した。個人の自由は維持された。鉄道、電報、蒸気船がブラジルに導入された。建国以降の30年にブラジルを悩ました反乱や紛争は問題にならなくなった」。 この平和はイギリス駐リオデジャネイロ領事ウィリアム・ドゥーガル・クリスティ(英語版)がほぼイギリスとブラジルの間の戦争を引き起こしたことで終わりを告げた。クリスティは砲艦外交を信奉しており、1861年末と1862年初におきた些細な事件2件を口実として、侮辱的な要求を盛り込んだ最後通牒をつきつけた。1つ目の事件はリオグランデ・ド・スル州海岸で商用バークが沈没して、現地住民が沈没船を略奪した事件だった。2つ目はリオデジャネイロ町中で酔っぱらって迷惑行為を起こしたイギリス士官が逮捕されたことだった。ブラジル政府が要求を拒否すると、クリスティはイギリス軍艦に賠償としてブラジル商船を拿捕するよう命じた。ブラジル海軍は戦争準備をはじめ、沿岸砲台を注文、装甲艦の建設が批准され、沿岸警備隊はブラジル商船を拿捕しようとするイギリス軍艦への砲撃を許可された。ブラジルが抵抗したのはペドロ2世が要求受け入れの提案を全て拒否したからだった。予想外の返事を受けたクリスティは態度を改め、国際仲裁で平和裏に解決することを提案した。イギリス政府の態度が軟化したため、ブラジル政府は逆に要求を提出、1863年6月にイギリスとの国交を断絶した。
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