進歩連盟の結党とは? わかりやすく解説

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進歩連盟の結党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:27 UTC 版)

ブラジル帝国の歴史」の記事における「進歩連盟の結党」の解説

1857年以降政党はいずれ議会での支持欠けており、長続きしなかった。保守党伝統派和解派(1860年には「中道保守派」と呼ばれるようになった)に分裂した保守党員は演説では和解政策分裂原因としたが、実際にはカルネイロ・レオンの死後新し世代政治家現れ権力欲したことが原因だった。この新し世代保守党老人政治家権力を手放さなかったために政権入れなかったと考えた1849年にプライエイラの反乱鎮圧された後残っていた自由党党員保守党解体したようにみえたため、機に乗じ国政再進出ようとして1860年には下院で数議席を得ることに成功した1861年3月2日ペドロ2世ラ・プラタ戦争ブラジル軍指揮した保守党員のカシアス侯爵(後に公爵昇格)を首相に任命した新内閣は発足早々に伝統派中道保守派、自由党の3グループ分裂した下院という難局直面したカシアス侯爵自由党を弱らせて、多数派確保すべく、伝統派中道保守派の両方入閣させた。 しかし、閣内での支持確保できず、すぐに行き詰まった。カルネイロ・レオン内閣法務大臣だったジョゼ・トマス・ナブコ・デ・アラウジョ・フィリョ(ポルトガル語版)が中道保守派と自由党合流支持する演説を行うと、内閣崩壊した演説大歓迎を受け、中道保守派と自由党共闘した。これにより内閣議会多数確保できなくなりペドロ2世議会解散選挙求めた拒否された。もはや選択肢残されていない内閣総辞職した1862年5月24日ペドロ2世中道保守派=自由党連合のサカリアス・デ・ゴイス・エ・ヴァスコンセロス(英語版)に組閣命じた党員大半が元保守派である新党は「進歩連盟」と呼ばれた。 これにより保守党による14年間の国政支配終わりを告げた。この時期ブラジルの平和と繁栄時期であり、「政治制度スムーズに機能した個人の自由維持された。鉄道電報蒸気船ブラジル導入された。建国以降30年ブラジル悩ました反乱紛争問題にならなくなった」。 この平和はイギリスリオデジャネイロ領事ウィリアム・ドゥーガル・クリスティ(英語版)がほぼイギリスブラジルの間の戦争引き起こしたことで終わりを告げたクリスティ砲艦外交信奉しており、1861年末と1862年初におきた些細な事件2件を口実として、侮辱的な要求盛り込んだ最後通牒つきつけた1つ目の事件リオグランデ・ド・スル州海岸商用バーク沈没して現地住民沈没船略奪した事件だった。2つ目はリオデジャネイロ町中で酔っぱらって迷惑行為起こしたイギリス士官逮捕されたことだった。ブラジル政府要求拒否すると、クリスティイギリス軍艦に賠償としてブラジル商船拿捕するよう命じたブラジル海軍戦争準備をはじめ、沿岸砲台を注文装甲艦建設批准され沿岸警備隊ブラジル商船拿捕しようとするイギリス軍艦への砲撃許可された。ブラジル抵抗したのはペドロ2世要求受け入れ提案全て拒否したからだった。予想外返事受けたクリスティ態度改め国際仲裁平和裏解決することを提案したイギリス政府態度軟化したため、ブラジル政府逆に要求提出1863年6月イギリスとの国交断絶した

※この「進歩連盟の結党」の解説は、「ブラジル帝国の歴史」の解説の一部です。
「進歩連盟の結党」を含む「ブラジル帝国の歴史」の記事については、「ブラジル帝国の歴史」の概要を参照ください。

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