進徳教校と真宗進徳教社とは? わかりやすく解説

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進徳教校と真宗進徳教社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 14:48 UTC 版)

崇徳教社」の記事における「進徳教校と真宗進徳教社」の解説

徳教校とは明治10年1877年2月現在の広島市寺町開設された学仏道場である。この進徳教校が設置され起因は、明治8年1875年)に本願寺派大谷派共同広島市胡町寺院子弟就学の便を図るために学仏場という学舎設けたことに始まる。そして、後に本派本願寺各地末寺子弟教育実施することから小教校の設置計画したため、本派僧侶だけで小教校としての徳教校を置くことになる。 当初の教校は、広島市寺町円龍寺寄宿舎真行寺庫裡教場として使用された。教師には前田慧雲高松覚了・青原智水寮長中川寂湛、生徒40余人であったという。そこで真宗宗学仏教学などが講じられていた。 明治10年1877年8月、西引御堂山田屋移転明治11年1878年6月広島市寺町仏護寺(現広島別院)に二棟の校舎新築して移る。仏護寺移った徳教校の職員には総監霊山諦念、副監に観山大順あたっていた。しかし、学舎としての規模拡大するにつれて資本供給背景がないため経営行き詰まったこのため、副監の観山大順学舎維持経営方法について、当時本願寺派安芸教区教務幹事島津日章訴えたところ、島津配慮本願寺教正であった利井明朗応急策を願い出た同時に篤信家で名望家でもある安芸郡長の沢原為綱にも謀った。さらにまた沢原は同郡の篤信家であり仁保村向洋戸長沢田右衛門計った。これを受けて沢田は教校に出頭し霊山観山福島の3人と会見し、教校財政打開策講じた。これ以後、教校財政はの計画沢田管理することになった思われる他方で、僧俗有志仏護寺において集会開き、「国内信徒一戸平均二十銭宛に、総額万円募集し、もって校資となす」ことを議決。この結果山県郡八重医師である児玉育成原田兵衛などの尽力により予定倍額である4万円募金集まった。そこへ明治13年12月本願寺教正利井明朗が来広し明如の意である「学校ばかりでなく、一社を結び布教慈善三方面に活動」すべきという旨を伝えた。 こうして、明治14年1881年)に「日三厘十年計画」という貯金法で安芸門徒50浄財募集することになり、ここに教社として真宗徳教社が創立されることとなった

※この「進徳教校と真宗進徳教社」の解説は、「崇徳教社」の解説の一部です。
「進徳教校と真宗進徳教社」を含む「崇徳教社」の記事については、「崇徳教社」の概要を参照ください。

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