進徳教校と真宗進徳教社
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進徳教校とは明治10年(1877年)2月、現在の広島市寺町に開設された学仏道場である。この進徳教校が設置された起因は、明治8年(1875年)に本願寺派と大谷派の共同で広島市胡町に寺院子弟の就学の便を図るために学仏場という学舎を設けたことに始まる。そして、後に本派本願寺が各地に末寺子弟の教育を実施することから小教校の設置を計画したため、本派の僧侶だけで小教校としての進徳教校を置くことになる。 当初の教校は、広島市寺町の円龍寺が寄宿舎、真行寺の庫裡が教場として使用された。教師には前田慧雲・高松覚了・青原智水、寮長は中川寂湛、生徒が40余人であったという。そこで真宗の宗学や仏教学などが講じられていた。 明治10年(1877年)8月、西引御堂の山田屋に移転。明治11年(1878年)6月、広島市寺町の仏護寺(現広島別院)に二棟の校舎を新築して移る。仏護寺に移った進徳教校の職員には総監を霊山諦念、副監に観山大順があたっていた。しかし、学舎としての規模が拡大するにつれて資本供給の背景がないため経営に行き詰まった。このため、副監の観山大順が学舎の維持経営の方法について、当時の本願寺派安芸教区教務所幹事の島津日章に訴えたところ、島津の配慮で本願寺の教正であった利井明朗に応急策を願い出た。同時に篤信家で名望家でもある安芸郡長の沢原為綱にも謀った。さらにまた沢原は同郡の篤信家であり仁保村向洋戸長の沢田七右衛門に計った。これを受けて沢田は教校に出頭し、霊山・観山・福島の3人と会見し、教校財政の打開策を講じた。これ以後、教校財政はの計画は沢田が管理することになったと思われる。 他方で、僧俗の有志は仏護寺において集会を開き、「国内信徒は一戸平均二十銭宛に、総額弐万円を募集し、もって校資となす」ことを議決。この結果、山県郡八重の医師である児玉育成、原田譲兵衛などの尽力により予定の倍額である4万円の募金が集まった。そこへ明治13年12月に本願寺の教正・利井明朗が来広し、明如の意である「学校ばかりでなく、一社を結び布教・慈善と三方面に活動」すべきという旨を伝えた。 こうして、明治14年(1881年)に「日三厘十年計画」という貯金法で安芸門徒50万の浄財を募集することになり、ここに教社として真宗進徳教社が創立されることとなった。
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