通俗続三国志・通俗続後三国志
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「三国志後伝」の記事における「通俗続三国志・通俗続後三国志」の解説
『通俗続三国志』、『通俗続後三国志』は、『三国志後伝』の日本語翻訳(翻案)である。 内容は、『通俗続三国志』は中村昂然が『三国志後伝』の前半部分の翻訳(翻案)を行い、尾田玄古 (馬場信武)が校定したもの。「序」には元禄十六年(1703年)3月と記載され、宝永元年(1704年)仲呂(4月)9日に『通俗續三國志』として帝都教來石彌兵衛(尾田玄古が経営としていたという説のある書肆(本屋))から37巻38冊が刊行されている。 翻訳部分は『三国志後伝』の第1回から第68回にあたり、『三国志後伝』における第1回から第7回までには複雑な置き換え、省略、書き加えが行われており、翻訳というよりは翻案がなされている。 『通俗続後三国志』は、中村昂然の『通俗続三国志』を引き継ぎ、尾田玄古が『三国志後伝』の後半を翻訳したもの。前編と後編に分けられて刊行された。 前編には尾田玄古の「自序」がなされ、正徳2年(1712年)皐(5月)と記載され、同年9月吉日に『通俗續後三國志 前編』として中川茂兵衛から32巻33冊が刊行されている。「後編二十五巻来巳秋出来」の広告がされていた。 後編は享保3年(1718年)孟春(1月)月吉祥日に『通俗續後三國志 後編』として中川茂兵衛から25巻25冊が刊行されている。 その後、江戸時代の文政年間まで刊行されていたことが確認される。 明治に入ってからも、明治19年1886年に『絵本通俗続三国誌』として、新たに挿絵をつけて刊行され、明治44年(1911年)に早稲田大学出版部より発刊された全12冊の『通俗二十一史』の第6巻、第7巻に収録された。また、昭和4年(1929年)には、同じく早稲田大学出版部より、『物語支那大系』の第6巻、第7巻に収録されている。なお、全て漢文のまま発行された。 中村昂然については、別号を無外子と称して『通俗玄宗軍談』を制作したこと、尾田玄古の『初學擲錢抄』に『仲村昂然』名の序が記載されていること、尾田玄古と同時代の人であること以外は不明である。 尾田玄古については、馬場信武の項目を参照。 内容は、序盤の置き換えなどの他に、劉淵を劉理の子ではなく劉禅の子とするなど、一部『三国志後伝』から改変されている。また、『通俗續三國志』の首巻には馬場信武編述として『三國志鼎足之譜系』『續三國志譜系』という『三国志後伝』にない蜀漢・魏・呉・晋・成・漢の皇帝の紹介も記載されている。 『通俗続三国志』『通俗続後三国志』は、白話的表現を訳し切れていない部分も存在するが、『三国志後伝』の世界で最古の翻訳(翻案)にあたると見られる。
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