通俗科学誌への変化
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「ポピュラーサイエンス」の記事における「通俗科学誌への変化」の解説
1915年までに読者数は減少し、科学雑誌の発行は財政的な課題となっていた。1915年9月号の社説で、キャッテルはこれらの困難を読者に説明し、「ポピュラーサイエンス」という名前を、大衆向けの科学雑誌にふさわしい名前を望んでいたグループに「譲渡」したことを発表した。翌月、購読者には、学術的な伝統を引き継ぐ『サイエンティフィック・マンスリー(英語版)』(The Scientific Monthly)というタイトルの新しい雑誌が送られることになった。『サイエンティフィック・マンスリー』は1958年に『サイエンス』に吸収された。 「ポピュラーサイエンス」の名称を取得したのはモダン出版社である。この会社は1914年に『エレクトリシャン・アンド・メカニック』(Electrician and Mechanic)誌を買収し、その後2年間でいくつかの雑誌を統合して、大衆向けの科学雑誌にした。この雑誌は短い期間に何度もタイトルを変更した。『モダン・エレクトリックス・アンド・メカニクス』(Modern Electrics and Mechanics)、『ポピュラー・エレクトリシティ・アンド・モダン・メカニクス』(Popular Electricity and Modern Mechanics)、『モダン・メカニクス』(Modern Mechanics)、『ワールズ・アドバンス』(World's Advance)である。買収後の最初の号である1915年10月号のタイトルは、『ポピュラー・サイエンス・マンスリー・アンド・ワールズ・アドバンス』(Popular Science Monthly and World's Advance)だった。巻号は第87巻第4号と『ポピュラーサイエンス』のものを引き継いでいたが、内容は『ワールズ・アドバンス』のものだった。新しい編集長は『サイエンティフィック・アメリカン』の元編集長であるヴァルデマー・ケンプフェルト(英語版)だった。 月刊『ポピュラーサイエンス』の変化は劇的だった。かつては100ページの8~10本の記事を掲載する学術誌であり、写真やイラストは10~20枚程度だった。新しいバージョンでは、何百もの短い読みやすい記事と何百もの図版が掲載される通俗科学誌となった。編集長のケンプフェルトは、雑誌の対象とする読者を「科学の世界について何かを知りたいと思っている職人やホビイスト」に定めた。発行部数は初年度で倍増した。 1935年から1949年にかけて、パラマウント映画の映画『ポピュラーサイエンス(英語版)』シリーズのスポンサーになった。
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