近現代の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 20:52 UTC 版)
ルーマニア正教会は1885年に、それまでの自治教会から独立教会となり、コンスタンディヌーポリ総主教座の支配を完全に離れた。
※この「近現代の歴史」の解説は、「ルーマニア正教会」の解説の一部です。
「近現代の歴史」を含む「ルーマニア正教会」の記事については、「ルーマニア正教会」の概要を参照ください。
近現代の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 09:47 UTC 版)
高知市街地はこの湾によって大きく二分されているといっても過言ではない。かつては、この二分による東西の発展度合いの差をなくそうと浦戸湾の埋め立てによる新市街地を形成する予定であったが、埋め立てをすることによって市街地の洪水被害を増幅させるとの懸念の声があがった。実際に一部湾内の埋め立て工事が完成した時に、埋め立て前と埋め立て後の湾内の水位を計測したところ、埋め立て後の水位上昇が明らかに確認されたため、埋め立て造成の計画は頓挫した形となって現在に至っている。 1998年(平成10年)に発生した集中豪雨により、浦戸湾から東側市街地では浸水による被害が多発したが、西側の市街地ではさほど大きな被害が見られなかった。このことより湾内における東西護岸高の差が明らかになった。これは、藩政時代より浦戸湾の西側の市街地には都市機能が集中している為、護岸堤を越堤するような津波や大洪水が発生しても都市機能をマヒさせないための措置である。近代において両岸共にコンクリート製の護岸壁をそのまま堤の上に築いたが、両岸のコンクリート製護岸壁本体の高さを同じ高さで設計を行い、初期に築堤された護岸堤高までは考慮されていなかった。そのため、昔の防災機能がそのまま残った形となって、県都の都市機能マヒという最悪の事態を逃れた。現在では両岸ともに洪水等による被害を未然に防ぐための新たな設計の基で、護岸や排水ポンプ場の設置修繕工事が進められている。 浦戸湾は湾口が狭く、高知港に大型の船舶が入港できないことは古くからの懸念事項であった。種崎の一部を掘削して航路とし、半島の先端部分を島とする計画も持ち上がったことがあったが、住民の反対により中止された。後に、種崎の先端部分の一部を切り取ることによって一応の航路を確保された。 昭和期前半には水上航空機の発着場があった。 大東亜(太平洋)戦争の末期、本土決戦に備えて大日本帝国海軍の海軍基地が置かれ、回天(第7回天隊)と震洋(第127震洋隊)が配備されていた。回天は湾口に近い浦戸地区に配備され、震洋は湾内の数ヶ所に隠されていた。 戦後、湾口に近い東岸側の仁井田地区には造船産業が集積するようになり、新高知重工・大永造船・中之島造船所などの各社の造船所が操業している。
※この「近現代の歴史」の解説は、「浦戸湾」の解説の一部です。
「近現代の歴史」を含む「浦戸湾」の記事については、「浦戸湾」の概要を参照ください。
- 近・現代の歴史のページへのリンク