辻が花と能装束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 21:03 UTC 版)
16世紀半ば、室町時代末期あたりから、日本の染織工芸は海外の染織品の影響を受けて、その素材や技法を多様化させていく。中国から輸入された刺繡作品の刺激を受けて、日本でも小袖などに精巧な刺繡が施されるようになり、刺繡と金箔を併用した縫箔(ぬいはく)という加飾法も現れた。室町時代末期からは「辻が花」と呼ばれる一連の染物が登場する。辻が花は縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消し、現存遺品が少ないこともあって、「幻の染物」ともいわれている。戦国時代から桃山時代にかけては、武将も服飾文化の重要な担い手であった。織田信長、豊臣秀吉、上杉謙信といった武将の着用した陣羽織や胴服には自らの個性と存在をアピールする大胆奇抜な衣装や色彩が採用され、ヨーロッパ渡来のラシャ(羅紗)の裂も使用された。日本の染織の歴史には長年登場しなかった綿花が栽培され普及するようになるのもこの時代である。日本で綿の栽培が始まったのは明応年間(1492 - 1500年)とされ、江戸時代中期以降には日本各地に木綿を素材とした織物が普及し、絞り染、型染、絣(かすり)などの製品が作られ、日本染織の重要な分野となる。この時代から発達した分野で重要なものの一つに能装束がある。能装束は、当初は一般の小袖などと大差のないものであり、大名が自らの着ていた小袖を脱いで能役者に与える等のことも行われたが、桃山時代から江戸時代には芸能衣装・舞台衣装として独自の発達を遂げた。 現存する辻ヶ花の中でも、家康の遺品は質・量共に他を圧倒しており、『慶長板坂卜斎記』にも家康が家臣へ数多くの小袖(年間に9から14・15領)を下賜した結果、天正末から文禄に掛けて小袖が天下に広まったとして、日本衣装が結構な事は家康に始まるとして、日本建築が結構な事は秀吉に始まると対比させている。
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