農民皇帝の即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 07:29 UTC 版)
「第二次ブルガリア帝国」の記事における「農民皇帝の即位」の解説
13世紀半ばから続く混乱期には民衆の反乱が頻発するが、1277年に起きたドブルジャの豚飼いイヴァイロ(在位:1277年–1280年)の蜂起(イヴァイロの蜂起(ブルガリア語版、英語版))は皇帝軍とジョチ・ウルスの双方に大きな打撃を与えた。イヴァイロの蜂起にはモンゴルの略奪に不満を抱いた農民が多く参加し、蜂起は支配者に対する反封建的な性質と、権威を失った皇帝に対して「正しい皇帝像」の復興を求める性質が併存していた。 1277年に「神の啓示を受けた」豚飼いイヴァイロは仲間や農民に困窮から脱出する道を説いて回り、イヴァイロの周りに集まった義勇兵はモンゴル軍を破り、彼らをドナウ川の北方に後退させた。この戦勝がきっかけとなって、皇帝に失望していた農民たちがよりイヴァイロの元に集まるようになる。同年秋にイヴァイロはタルノヴォに向かい、進軍中に民衆から皇帝に推戴された。義勇軍は進軍中の会戦で皇帝コンスタンティン・ティフを敗死させ、1278年にタルノヴォを包囲する。イヴァイロの蜂起に対して東ローマ皇帝ミカエル8世は当初イヴァイロへの接近を試みるが蜂起が階級闘争的な性質を持ち合わせていることを知ると翻意し、ギリシャ文化に同化したアセン家の皇族イヴァン・アセン3世(在位:1279年–1280年)をブルガリア皇帝に擁立する。ミカエル8世はイヴァン・アセン3世に軍隊を付けてブルガリアに送り返した。東ローマ軍の接近を知ったイヴァイロはタルノヴォの政府と講和し、未亡人となっていた皇妃マリアと結婚してヨーロッパ初の農民皇帝として帝位に就いた。 皇帝に即位したイヴァイロは南から進軍する東ローマ軍と北のモンゴル軍の両方と戦わなければならず、迎撃に出たイヴァイロがタルノヴォを留守にしている間にクマン人の血を引くゲオルギ・テルテルらタルノヴォの貴族がクーデターを起こし、イヴァン・アセン3世をタルノヴォに迎え入れた。東ローマの包囲を破ったイヴァイロはタルノヴォに戻り、イヴァン・アセン3世はコンスタンティノープルに逃亡した。しかし、イヴァン・アセン3世の失脚後にゲオルギ・テルテルがタルノヴォの貴族によって皇帝に推戴された。イヴァイロとゲオルギ・テルテルの戦いはおよそ1年の間続くが厭戦気分の高まるイヴァイロの軍は次第に劣勢になり、1280年にイヴァイロは皇帝の地位を失った。失脚したイヴァイロはジョチ・ウルスに亡命するが、宴席の座でジョチ・ウルスの有力者ノガイによって殺害された。
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