農工業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 08:13 UTC 版)
漁業がさかんな磯でも、自活の必要性から、少ない土地を切り拓いての農耕も行われた。近世には数百人が暮らした集落であるのに対して耕作面積の少ない磯では山の頂上にいたるまで耕作され、狭小地にも石積みし、土手を築いて田畑とした。おもに大麦と甘藷を育てていたとみられる。 昭和期以降は梨の栽培もおこなわれた。山風の吹かない場所を選んで開墾し、おもに二十世紀梨を50から60本植えたという。21世紀初頭には樹齢100年におよぶ老樹をもつ家もあるが、当初5~6戸で始まった梨栽培も、2戸を残すのみとなった。 近代、この集落に特徴的な産業に、「掛草制度」があった。現金収入の一助として、村をあげて夏草を刈り、舟で他村に運んで販売した。磯の草は塩分を含んで腐りが早く、田の肥料草として良質で重宝された。 近代以降では、丹後ちりめんに代表される織物業が盛んに営まれるようになり、農業漁業は兼業に移行した。享保年間に西陣で大火があり、丹後織物の需要が伸びたのを機に、井本金七なる人物が磯で初めてちりめん業に着手したと伝えられる。1898年(明治31年)頃には養蚕も盛んに行われるようになった。1920年(大正9年)の時点で磯の村内に機屋は7戸あり、約50台の機が稼働していた。1927年(昭和2年)の北丹後地震後も機屋の戸数に変わりはない一方で機数は増え、宇川方面など村外から多くの女工が磯を訪れ、住み込みで働いた。1930年(昭和5年)頃には7戸共同の工場も静神社の東南の辺りに建設され、ドイツ製50馬力のエンジンを導入して下作業を行った。第二次世界大戦中には一時抑制されたものの、1955年(昭和30年)頃には貸機が増加、織物業者は岩戸景気を受けて、1959年(昭和34年)頃から1965年(昭和40年)頃にかけて急増した。
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