軟禁解放後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 18:56 UTC 版)
1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた。1981年に台湾の記者とインタビューを行い、中国の植民地化を追求するために明帝国と清帝国の歴史を研究したことと、クリスチャンに改宗したことで回想録を書くことを断念したと述べている。 1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相については証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」とも主張している。 同時に青年期は阿片中毒であったとも語り、「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。 中華人民共和国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶している。その後、1991年に釈放され、アメリカのハワイ州ホノルル市へ移住した。 1994年の陸鏗(英語版、中国語版)のインタビューに対して、張は「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言したが、仔細についてはやはり語ることはなかった。張と個人的な交流があった李登輝も、「西安事件の真相を最後まで一言も語らなかった。口の堅い男だったな」と回想している。北京政府は張を台湾工作に利用することを画策していたが、張は拘禁を解かれる条件であった中国大陸に行かない約束を守り通し、誘いを断り続けた。 そのままホノルル市に隠棲し、2001年に死去。100歳没。
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