軍国プロイセンの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:44 UTC 版)
「プロイセン王国」の記事における「軍国プロイセンの発展」の解説
フリードリヒ1世は1713年に死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が即位した。「兵隊王」とあだ名されたこの王は、父王とは正反対の性格であった。質実剛健を旨として宮廷費を8割削減、ヴィンケルマンのようなアカデミーの学者たちはあまりの待遇のひどさにプロイセンを去るほどで、執務中は服がインクで汚れないよう袖カバーを着用するなどの極端な倹約家ぶりは人々を驚かせた。王はそれによって生じた余剰金を全て軍事費に振り向けたため、プロイセン常備軍は4万から8万にふくれあがった。またペストによって人口の減少した東プロイセンに、フランスから亡命してきたユグノーたちを有利な条件で誘致したり、輸出入を管理して国内産業の保護に努めたりした。1720年に大北方戦争の終結によって結ばれたストックホルム条約で、プロイセンは前ポンメルン、ウーゼドム島、ヴォリン島などを獲得している。1727年にザルツブルク大司教フィルミアン男爵レオポルド・アントン・エロイテリウス(英語版)が始めた新教徒迫害(de:Salzburger Exulanten)は1731年から1733年には最高潮に達し、東プロイセンへの追放者約2万人を受け入れたため、王国は繁栄にむかった。国王が宮廷費を削減し、産業の発展に注ぎ込んだために、王国の産業は大きく発展した。 「大王」フリードリヒ2世は即位した1740年に多くの啓蒙主義的な改革を行った。拷問の廃止・宗教寛容令・アカデミー復興・新聞の創刊を実現し、ベルリンはユグノーらと栄えた。王立銀行(後のプロイセン銀行(ドイツ語版))も彼が創設した。ここの頭取をカール・テオフィル・ギシャールが務めた。兵隊王の残した軍隊はさらに増強され、豊かなシュレージエンを侵攻、オーストリア継承戦争と七年戦争という2度の苦しい戦いを耐え抜き、1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定する。1772年にポーランド分割により西プロイセン、エルムラント、ネッツェを獲得し、大王の治世の間にプロイセン王国の領土と人口は約2倍に、常備軍は22万になった。プロイセン王はもはや誰はばかることなく「プロイセン国王」(König von Preußen)を名乗ることができた。 大王の後を継いだ甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の時代もプロイセン王国は成長を続けた。米独立戦争後の1791年、アンスバッハ=バイロイト辺境伯のカール・アレクサンダーに終身年金を与え、その領土を譲り受けた。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は受領と管理のためにカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクを責任者として赴任させた。ユグノーらの投資がきっかけとなった1792年と1795年の2度のポーランド分割によって、ダンツィヒ、トルンおよび新東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。1789年にはラングハンスが王の命により、ギリシャの列柱門を模したブランデンブルク門をベルリンに建設している。
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