起源と中世の猿橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:19 UTC 版)
所在する猿橋町猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点の付近に位置し、一帯は甲斐国と武蔵国・相模国の交通拠点である。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置された。 猿橋が架橋された年代は不明だが、地元の伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済に寄留していたイラン系胡人の渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説がある。「猿橋」の名は、この伝説に由来する。 室町時代には、『鎌倉大草紙』によれば関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したという。文明19年(1487年)には聖護院道興『廻国雑記』において、道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌・漢詩を記録している。 戦国時代には、『勝山記』永正17年(1520年)3月に都留郡の国衆・小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行っている。この信有による架替は、小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されている。猿橋は天文2年(1533年)にも焼失し、天文9年(1540年)に再架橋されている。 『勝山記』によれば、大永4年(1524年)2月11日に甲斐守護・武田信虎は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ出兵し相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったという。戦国期に小山田氏は武田氏に従属し、『勝山記』によれば享禄3年(1530年)正月7日に越中守信有は当地において氏綱と対峙している。『勝山記』によれば、留守中の3月には小山田氏の本拠である中津森館(都留市中津森)が焼失し、4月23日に越中守信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退している。 また、猿橋には国中の永昌院(山梨県山梨市矢坪)の寺領も存在していた。
※この「起源と中世の猿橋」の解説は、「猿橋」の解説の一部です。
「起源と中世の猿橋」を含む「猿橋」の記事については、「猿橋」の概要を参照ください。
- 起源と中世の猿橋のページへのリンク