小山田信有 (涼苑)
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小山田 信有(おやまだ のぶあり、長享2年(1488年) - 天文10年2月12日(1541年3月9日)?)は、室町時代後期の武将。甲斐国東部の郡内領主(国人)。桓武平氏・秩父氏(異説もある)の小山田氏の一族。孫三郎。越中守を称した。法名は涼苑。父は小山田弥太郎(信隆)。妻は武田信縄の娘[1][2]。また正室の死後に大井信達の娘を継室に迎えた可能性も示唆されている[3]。子に出羽守を称した小山田信有がいるとされてきたが、世代的に弟である可能性が挙げられている[4]。弥三郎を称した小山田信有・小山田信茂は孫にあたる[5]。
- ^ 「武田源氏一統系図」『山梨県史』資料編中世6中世3上(県内記録)所載等による。
- ^ 上記の武田氏と小山田氏の婚姻を永正7年の和睦によるものとする説は磯貝正義『武田信玄』(新人物往来社、1970年)に拠る。
- ^ 丸島和洋 『郡内小山田氏』戎光社出版、2013年、84-86頁。
- ^ 丸島和洋 『郡内小山田氏』戎光社出版、2013年、104-108頁。
- ^ 弥三郎・信茂の関係をはじめ小山田氏の人物比定に関する検討は堀内亨「小山田氏の動向」『西桂町誌』(2003)
- ^ 丸島和洋 『郡内小山田氏』戎光社出版、2013年、80-82頁。
- ^ 丸島和洋 『郡内小山田氏』戎光社出版、2013年、86-87頁。
- ^ 上記の『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載。
- ^ 武田・小山田の婚姻を永正7年の和睦とする説は上記の磯貝正義『武田信玄』(新人物往来社、1970年)で、武田氏と小山田氏の婚姻は、南北朝期に小山田弥三郎の妻が守護武田信満に嫁した先例がある。
- ^ 堀内(2003)
- ^ 秋山敬「甲斐における中世郡内交通路と小山田氏館」『武田氏研究』(第37号、2007.12.1)
- ^ 『勝山記」『県資』6上所載に拠る
- ^ ともに『勝山記』に拠る。越中守信有の発給文書は現存しておらず、『勝山記』同年条は越中守信有の初見記事となっている。
- ^ 『勝山記』に拠る。谷村館については『山資』7中世4考古資料。なお、谷村館への移転は、国中において武田氏が甲府を中心とした城下町(武田城下町)整備を行っていることと連動していることが指摘されている。
- ^ 秋山(2007)、また、秋山はこの解釈により中津森館から谷村館への移転は越中守信有の死去により出羽守信有が家督を継承する時期にあたるとし、永正7年の講話以来続いている武田氏の圧力の一環であるとする説を提唱している。
- 1 小山田信有 (涼苑)とは
- 2 小山田信有 (涼苑)の概要
- 3 参考文献
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