起源とジュグルトゥムの支配 (1830年頃から1870年頃まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 23:37 UTC 版)
「ダル・アル・クティ」の記事における「起源とジュグルトゥムの支配 (1830年頃から1870年頃まで)」の解説
ワダイとその西隣に位置するスルタン国、バギルミ (1522年〜1897年)は奴隷狩りの遠征隊を南部チャドのナイル系民族であるサラ人 の暮らす地域へと送っていた。19世紀初頭にはこのような奴隷狩り遠征は今日の中央アフリカ共和国にまで及んでいた。 この頃、バギルミはムバン(バギルミの支配者)であるブルゴマンダの統治下にあり、彼にはアブド・エル・カデールとジュグルトゥムの二人の息子がいた。アブド・エル・カデールが1826年にスルタンになると、彼は弟のジュグルトゥムを権力の座から遠ざけてしまおうと試みて、ジュグルトゥムはワダイに逃れた:65 ワダイの「カラク」 (スルタン)はジュグルトゥムを属国のスルタン国であるダル・ルンガに送った。ダル・ルンガはアズム川とアウク川の間に位置する軍事的な境界地域でもあった。ジュグルトゥムはダル・ルンガのスルタンであるボケルの娘、ファトメと結婚した。1830年にさらに南方の辺境地域、ビラード・アル・クティ(アウク川の南に位置する奴隷狩り地帯)に定住した。 ビラード・アル・クティ(ダル・アル・クティ)はダル・ルンガの属国となり、ダル・ルンガはワダイの属国の地位に留まった:65 アウク川の支流、ディアンガラ川沿いのチャはダル・アル・クティの首都となり、ジュグルトゥムはワダイ帝国によってダル・アル・クティの知事として任命された。ジュグルトゥムの治世(1830-1870) の時期は不正確ではあるものの、ジュグルトゥムはダル・アル・クティの最初の支配者であった。ダル・アル・クティの領土には重要な集落のみで14の村があり、東西へ二日で横断することができた。これはダル・アル・クティが非常に小さな国であったことを意味している
※この「起源とジュグルトゥムの支配 (1830年頃から1870年頃まで)」の解説は、「ダル・アル・クティ」の解説の一部です。
「起源とジュグルトゥムの支配 (1830年頃から1870年頃まで)」を含む「ダル・アル・クティ」の記事については、「ダル・アル・クティ」の概要を参照ください。
- 起源とジュグルトゥムの支配のページへのリンク