起源とドナウ以北への移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 02:53 UTC 版)
「バナト・ブルガリア人」の記事における「起源とドナウ以北への移住」の解説
ブルガリア北西部の鉱山町チプロフツィやその周辺にみられるブルガリア人ローマ・カトリック教徒の起源は、中世にブルガリアに移住したドイツ人(ザクセン人)とみられ、彼らはその後更に移住・拡散し周辺の人々へと同化していった。1688年、チプロフツィの住民は、ブルガリアを支配するオスマン帝国に対する反乱(チプロフツィ蜂起)を企てて失敗した。組織力の弱さや、オーストリアによる対オスマン帝国構成の中断により、反乱は失敗し鎮圧された。生き残ったカトリック教徒の300家族はドナウ川を超えて北のオルテニア地方に逃れ、まずクラヨーヴァ、ルムニク・ヴルチャなどに住み着いた。彼らはワラキア公コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ(Constantin Brâncoveanu)によってこれらの町での居住権を認められた。一部はトランシルヴァニア南西部に移住し、ヴィンツ・デ・ヨス(Vinţu de Jos、1700年)やデヴァ(1714年)などの入植地を築き、公民権、免税権などの特権を与えられた。 1718年にオルテニア地方がオーストリア帝国の占領をうけると、この地方に住むブルガリア人の地位は引き上げられ、1727年の帝国の布告によってトランシルヴァニアに移住したブルガリア人と同様の特権がオルテニアのブルガリア人にも付与された。このことが更に多くのブルガリア人カトリック教徒を惹きつけることとなり、ブルガリア北中部の、かつてはパウロ派に属した村々に住むカトリック教徒、およそ300家族がドナウ川を超えて北に移住した。彼らは1726年から1730年までクラヨーヴァに居住したが、かつてチプロフツィから逃れてきたブルガリア人と同様の特権が与えられることはなかった。 1737年に再びオスマン帝国とオーストリア帝国との間で戦争が始まると、オーストリアはオルテニアの放棄を余儀なくされた。この地方に住むブルガリア人はオスマン帝国から逃れて北西に向かい、オーストリア領のバナトに移り住んだ。オーストリアの当局は1738年にスタル・ビシュノフ(Stár Bišnov)、1741年にヴィンガVinga、別名テレシオポリス Theresiopolis)の入植地建設を許可した.1744年には、マリア・テレジアの勅命により、オルテニアのブルガリア人の特権が再確認された。
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