資本と参加者の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:48 UTC 版)
前節で述べたそれぞれの思惑、つまり、旧大名家への貸し付け(旧藩債)が焦付くことを恐れ、また新しい通商・為替会社の必要を感じた大阪商人は後藤象二郎の政治力によって旧藩債を明治政府の国債として回収することを期待し、それを後藤の会社に投資することで貢米買受業務および為替方に参加する一石二鳥を考え、後藤も多額の資金を自分の会社に導入できるというメリットがあり両者の利害が一致し会社設立計画は進む。 1873年(明治6年)3月の蓬萊社出資計画では鴻池善右衛門の120万円、長田作兵衛(加嶋屋)71万円、和田久左衛門(辰巳屋)50万円、高木五兵衛(平野屋)49万円、石崎喜兵衛(米屋)30万円など大阪商人から340万円(ほとんどが現金ではなく大名貸付を転換した国債にての出資)と旧大名である上杉斉憲と蜂須賀茂韶からの105万円 計445万円を予定していた。しかし、この計画はもろくも崩れる。蓬萊社参加予定者だった長田作兵衛と高木五兵衛の分家の百武安兵衛は蓬萊社が扱うはずの広島県の公金を流用してしまい、その穴埋めを蓬萊社に参加する大阪商人たちがさせられたのである。さらに大阪商人たちの旧藩債は大幅に減額され、鴻池は120万円の大名貸債権が30万円しか回収できなかった。これらのことによって大阪商人たちは蓬萊社への参加・出資を取りやめる意向に変化した。後藤の慰留により大阪商人たちは名目上は蓬萊社に残るものの事実上の出資は行われず、後藤は蓬萊社の計画を大幅に見直さなければならなかったのである。 1874年(明治7年)8月、後藤らは大阪商人らと協議し、改めて規約を制定する。1874年の新たな出資予定では上杉斉憲26万円、蜂須賀茂韶24万円、後藤と親しかった京都の豪商島田八郎左衛門25万円、同じく島田善右衛門25万円、後藤象二郎8万円以下合計で250万円と大きく出資者を変え金額も減り、大阪商人たちは一応名前だけは残すものの出資金額は未定となっていた。つまり当初の大阪商人と後藤の会社の予定が、まったく異なってしまったのである。しかも新たな出資予定の250万円も全額が出資されたわけではなく、現実に払われた資本金は少なかった。大町桂月の後藤象二郎伝記ではわずか十数万円程度とさえされている。このように最初から予定外の船出であったが、にもかかわらず後藤は様々な事業に手を染めていくのである。
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