警視総監・臨時建築局副総裁
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「三島通庸」の記事における「警視総監・臨時建築局副総裁」の解説
明治18年(1885年)12月22日、第5代警視総監に就任した。武術を振興し、弥生慰霊祭記念柔道剣道試合を毎年開催することとし、同大会で横山作次郎と中村半助の55分に及ぶ試合を引き分けた。また、武術家を警視庁武術世話掛に採用した。三島が在任中に死去するまでの2年10か月間に警視庁の武術は大きく飛躍したことから、警視庁武術の功労者といわれている。代表例では柔道が武術世話掛の必修科目となったことから全国に広まった。 明治19年(1886年)2月、五男三島弥彦が生まれる。3月、警視庁撃剣世話掛の補充について山岡鉄舟に相談したところ高野佐三郎の推薦を受け即採用。5月8日、叙勅任官一等、下級俸賜。警視総監として、全国の武術家を芝の弥生館に集めて武術大会を開いた。 同年7月、臨時建築局副総裁に就任。内閣直属で主と建設を進める役であり、総裁は井上馨。官庁集中計画などを考案。12月、井上と三島が総理大臣伊藤博文に建議、これには首都移転が提言されていた。 明治20年(1887年)5月24日、維新の功により子爵を授けられた。 保安条例 同年2月25日、三大事件建白運動や大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が勅令として公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。当条例の対象人物には尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨などがいた。 同年11月、警視総監職が多忙に付き建築局を辞職。 同年、床次正精が作成した西郷隆盛の肖像画について、床次から意見を求められる。 明治21年(1888年)、山岡鉄舟の推挙を受け大炊御門師前を警視庁に採用。4月、千住小塚原に死刑者の法要供養を行い、雑司ヶ谷に埋葬場を移し慰霊塔を建立。5月、織田完之らが進める千葉県の印旛沼開削計画のために設立された大明会の発起人の一人として、渋沢栄一らとともに名を連ねた。
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