諸法典の編纂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
司法卿の大木喬任は、司法省に5局22課を置き、民法・刑法・治罪法・商法・(民事)訴訟法の編纂に着手。1876年(明治9年)から翌年7月までの間にボアソナードが刑法原案を起草、治罪法も1878年(明治11年)末までの間に起草し、ほぼ完成。 ボアソナードは厳罰主義の仏刑法典に批判的だったため、ベルギー、ドイツ、イタリア刑法なども参照され、鶴田皓ら日本人委員の努力もあり、西洋法理と日本社会の調和が図られた。一方、当時の仏治罪法典は、革命の反動法の性格強烈な国家主導型(糾問主義)の法典だと英米の法学者から批判されていた原始規定が改正により穏健化したもので、母法とするのに支障は無かった。 1877年、太政官に刑法草案審査局(総裁伊藤博文)を設置して草案を修正、1880年(明治13年)には元老院の審査に附され、激論の末妾規定や官吏讒毀罪を削除、法律上の一夫一婦制が確立。 法典論争延期派の村田保を妾公認主義であり典型的な保守派とみる論者もいるが(松本)、ここでは伊藤・大木とともに廃妾論者の主力であった。後には皇室に対する罪をも含む死刑全面廃止論を主張している(第16帝国議会)。 7月、刑法・治罪法を公布(太政官布告36号)、1882年(明治15年)から施行。福澤諭吉(延期派)の時事新報も、福島事件公判に際して両法を高く評価している。 一方、商法典の編纂は1876年(明治9年)にオランダ人に委嘱、アダム・ラパール(Adam Rappard)がこれに当たるとみられるが(高田晴仁)、イタリア商法典のオランダ語訳を作った程度で、起用は失敗した。
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