諭吉と勝海舟とは? わかりやすく解説

諭吉と勝海舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「諭吉と勝海舟」の解説

諭吉は、勝海舟批判者であり続けた戊辰戦争の折に清水港停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸船員新政府軍交戦し徳川方戦死者放置された件(清水次郎長埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者慰霊石碑清水清見寺内に立てられるが、諭吉家族旅行清水遊びこの石碑碑文書いた男が榎本武揚銘記されその内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという。 『瘠我慢の説』という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(ともに旧幕臣でありながら明治政府仕えた)を理路整然と古今引用を引きながら、相手立場理解していると公平な立場強調しながら、容赦なく批判している。なお諭吉は海舟に借金申し入れをしてこれを断られことがある当時慶應義塾経営西南戦争影響で旧薩摩藩学生退学などもあり思わしくなく、旧幕臣に比較簡単に分け隔てなく融通していた海舟に援助求めた。しかし海舟は諭吉政府から払い下げられ1万4000坪に及ぶ広大な三田の良地を保有していることを知っていたため、土地売却してもなお(慶應義塾経営に)足りなかったら相談に乗る答えたが、諭吉三田土地を非常に気に入っていたため売却していない。瘠我慢の説発表このあとのことである。また、福翁自伝』で諭吉借金について以下のように語っている。 「私の流儀にすれば金がなければ使わない有って無駄に使わない多く使うも、少なく使うも、一切世間の人のお世話に成らぬ使いたくなければ使わぬ使いたければ使う、嘗(かつ)て人に相談しようとも思わなければ、人に喙(くちばし)を容れさせようとも思わぬ貧富苦楽共に独立独歩ドンなことがあっても、一寸でも困ったなんて泣き言言わず何時も悠々としているから凡俗世界ではその様子を見てコリャ何でも金持だと測量する人もありましょう。」 海舟も諭吉同様に身なりにはあまり気を遣わないであったが、よく軽口を叩く癖があった。ある日上野精養軒明六社尻端折り姿に蝙蝠傘をついて現れた海舟が「俺に軍艦3隻ほど貸さないか?日本が貧乏になってきたからシナ強盗でもしに行こうと思う。向こうからやかまし言ってきたら、あいつは頭がおかしいから構うなと言ってやればいい。思いっきり儲けてくるよ。ねえ福沢さん、儲けたらちっとあげますと言ってからかったという。 しかし、海舟は諭吉のことを学者として一目置いており、自分学んだ佐久間象山息子佐久間恪二郎や、徳川慶喜の十男で養子勝精慶應義塾入学させるなど面倒見のよい一面もあった。

※この「諭吉と勝海舟」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
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