誘致から開園まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 23:19 UTC 版)
岡山市が市制施行100周年(1989年(平成元年))の目玉事業として1986年(昭和61年)、岡山市北長瀬、北長瀬表町、野田にまたがる日本国有鉄道(国鉄)岡山操車場(当時休止中、現・岡山貨物ターミナル駅)用地にチボリ公園を誘致する構想を発表した。1990年(平成2年)2月には岡山県と岡山市が出資する第三セクター、チボリ・ジャパン社が設立され、同年8月には岡山操車場および日本貨物鉄道(JR貨物)西岡山駅(現・岡山貨物ターミナル駅)旧駅跡地の日本国有鉄道清算事業団用地(面積15.4ヘクタール、現・岡山操車場跡地公園)を特殊公園の「岡山チボリ公園」とし、その東側を駐車場用地とする都市計画決定が行われた。 しかし同じ月にチボリ・ジャパン社のずさんな経営とローカライズ(付近住民への配慮を含む)を完全に視野に入れていない、いわば「チボリ公園の運営マニュアルをそのまま持って来ればなんとかなるだろう」という認識に基づく緩慢な運営プランが発覚し、地元から公園誘致に対する反対の声が強まったため、推進派だった岡山市長の松本一は1991年(平成3年)1月に辞職し市長選に再出馬したが、松本はチボリ計画見直しを掲げる対立候補の安宅敬祐に敗れ、新市長の安宅は当選後、計画からの撤退を決めた。一方、松本と同じく推進派であった岡山県知事の長野士郎は岡山市の計画撤退表明後、倉敷駅北側のクラボウ倉敷工場(旧万寿工場、面積12.0ヘクタール)が閉鎖されることが明らかになったのを受け、1991年9月、倉敷市長の渡邊行雄に対してチボリ公園の受け入れを要請した。 土地所有者のクラボウは1993年(平成5年)6月、倉敷工場跡地へのチボリ受け入れを決め、9月には倉敷市議会もチボリ誘致を決定したものの、事業そのものについては倉敷市が建設費用助成として100億円を負担するにとどまり、ともに公園事業への直接参加にはいたらなかった。さらに1994年(平成6年)4月には計画の中核企業だった阪急電鉄が撤退したため、チボリ公園は岡山県の単独事業となった。1995年(平成7年)5月に岡山県はクラボウと工場跡地の賃貸借契約を締結してチボリ・ジャパン社に転貸。公園施設の工事は同年9月に始まり、2年後の1997年7月18日に開園した。
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