詩人へ
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1933年、郷里の隣家の紹介で、広島県豊田郡本郷町(現三原市)出身の永井貞恵と見合い結婚。貞恵の弟の善次郎は後の評論家佐々木基一。1935年、小品集『焔』を自費出版。俳句誌『草茎』へ貞恵とともに俳句を発表。俳号は杞憂。1936年から1941年にかけて『三田文学』などに短編小説を多数発表するが、1939年の貞恵の発病により次第に作品発表数は減少した。1942年に船橋市立船橋中学校の嘱託英語講師となる。1944年9月28日、貞恵が糖尿病と肺結核のため死去。妻との思い出は後に「忘れがたみ」(1946年)などの作品を生んだ。 同年、船橋中学を退職し朝日映画社の脚本嘱託となる。 1945年1月31日、郷里の広島の長兄の家へ疎開。8月6日に広島市に原爆が投下され、爆心地から1.2キロメートルの生家で被爆。家が堅牢だったこと、狭い便所にいたことから一命はとりとめるが、家はその後の火災で焼失する。二晩の野宿の後、佐伯郡八幡村(現広島市佐伯区東部)に避難する。それ以後被爆との因果関係は不明であるが下痢など体調がおもわしくない状態が続く。秋から冬にかけて、原爆投下の惨状をメモした手帳を基に小説「原子爆弾」(後の「夏の花」)を執筆。体験者しか知りえない同作の過酷な原爆描写は、現在でも稀少であるとともに、原が詩人であったことから、今日でも原爆投下の状況を表現した詩として評価が高い。
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