詩人クレメンス・ブレンターノとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 16:05 UTC 版)
「アンナ・カタリナ・エンメリック」の記事における「詩人クレメンス・ブレンターノとの出会い」の解説
この時期、エンメリックは、19世紀の初めに教会の刷新運動において重要な活躍をした多くの著名人と知り合っている。特に著名な詩人であるクレメンス・マリア・ブレンターノとの出会いはエンメリックの人生で顕著なものとなった。ブレンターノは1819年、最初の訪問以来、5年間にわたりデュルメンに滞在し、後に出版することになるエンメリックの幻視を記録するために毎日エンメリックを訪問した。ブレンターノによると、エンメリックを最初に訪問した際、会うと同時にエンメリックは自身が神から託された使命を果たすことを可能にする人物がブレンターノであることを認識した、と伝えてきたという。ブレンターノもエンメリックに会うとすぐに、エンメリックが「キリストの選ばれた花嫁」であると確信し、そしてエンメリックの大勢の支持者の一人に加わった。ブレンターノは母親のイメージをエンメリックに投射していたという指摘もある。 1819年から、エンメリックが死ぬ1824年まで、ブレンターノは、エンメリックが見た幻視の内容を聞き取り、記録した。その記録したノートは新約聖書や、聖母マリアの生涯のシーンで溢れていた。エンメリックは、低ザクセン語でしか話せなかったので、ブレンターノはエンメリックの言葉を直接には口述筆記できず、彼女の目の前ではノートにすぐに書くことはできなかった。彼は自分のアパートに戻るとすぐに、エンメリックとの会話を思い出し、それを基にノートに書き記した。 エンメリックの死後、ブレンターノは、彼女が幻視したビジョンを語ってから約10年後に、書籍出版用にノートの編集を完了した。1833年、ブレンターノは 『邦題:キリストのご受難を幻に見て』をアンナ・カタリナ・エンメリックの著作として出版した。ブレンターノは、その後、『邦題:聖家族を幻に見て』の原稿を用意したが、ブレンターノが1842年に死亡したため、同書はその後ミュンヘンで1852年に出版されている。 レデンプトール会士のカール・シュモーガー神父 (Karl Schmoger) はブレンターノの原稿を編集し、エンメリックの伝記を書いた。
※この「詩人クレメンス・ブレンターノとの出会い」の解説は、「アンナ・カタリナ・エンメリック」の解説の一部です。
「詩人クレメンス・ブレンターノとの出会い」を含む「アンナ・カタリナ・エンメリック」の記事については、「アンナ・カタリナ・エンメリック」の概要を参照ください。
- 詩人クレメンス・ブレンターノとの出会いのページへのリンク