試作・試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:17 UTC 版)
陸上軍艦の試験車輌は、1915年9月に完成し、開発担当者の名前から「トリットン・マシン」と呼ばれた。だが、この試験車輌は軍が要求した超壕課題こそクリアしたものの、所定の段差を越えることができず、また足回りのトラブルも多かった。そこで、トリットン・マシンの主に足回りを改良すべく、民生部品の流用を見直し、部品の専用設計を行い、製作されたのが、1915年12月に完成した「リトル・ウィリー」である。だが、リトル・ウィリー自体は塹壕や不整地を走破する能力が低く、兵器としての実用に耐える物ではなかったことから、履帯が車体側面全体を回る形の菱形戦車の開発が進められる。 詳細は「リトル・ウィリー」を参照 防諜のため、菱形戦車の試作車輌には、1915年11月4日に「water carrier 水運搬車」というコードネームが名付けられたが、1915年12月24日に名称の変更が決定され、さまざまな秘匿名が検討されたが、最終的に「tank タンク」(≒水槽)が選ばれ、表向きにはメソポタミアの植民地向けに貯水槽(タンク)を製造していることにされたが、この植民地を失ったため、偽(架空)の契約の顧客としてロシア帝国が選ばれた。 完成した菱形戦車の試作車輌「ビッグ・ウィリー」は、1916年2月2日、ソールズベリー侯の邸宅にて、デモンストレーションを行い、丘、小川、鉄条網、塹壕といった課題をクリアした。 邸宅には、デビッド・ロイド・ジョージ(軍需大臣)、アーサー・バルフォア(外務大臣)、ウィリアム・ロバートソン(イギリス陸軍将校)など、政府や軍の重鎮が大勢集まった。ホレイショ・ハーバート・キッチナー(軍司令官)は戦車開発に反対していたものの参加した。ロイド・ジョージは非常に強い印象を受け、「センチピード(=ムカデ)などと呼ばれる醜いけだものを見たとき、私はただただ驚き圧倒された」と語っている。なお、海軍主導で開発されたので、海軍式の「HMLS センチピード(国王陛下の陸上艦 センチピード)」が正式な名称である。 デモンストレーションは成功をおさめ、ビッグ・ウィリーの量産化が決定、制式名称を「マークI」とし、この試作車輌は全ての戦車の原点として「マザー(Mother)」と呼ばれることとなる。そして、40輌(すぐに100輌へ増加)の生産が決まったが、これら全ての車輌にも海軍式に個別の名称が与えられた。
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