訪日〜ウィーン万国博覧会
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「ゴットフリード・ワグネル」の記事における「訪日〜ウィーン万国博覧会」の解説
アメリカ企業のラッセル商会の石鹸工場設立に当たり、パリ時代からの親友が紹介した社長のトーマス・ワルシュによって、ワグネルは長崎に招聘された。1868年3月29日にマルセイユを出発。同年5月15日(慶応4年4月23日)に長崎に到着した。しかし製品開発はうまくいかず、工場は軌道に乗らずに廃止された。その後、佐賀藩に雇われて1870年4月より8月にかけて有田町で窯業の技術指導にあたった。ここでは 石灰を用いた経済的な釉薬の開発 従来使われていた呉須に代わる安価なコバルト顔料の使用 薪不足を解決するための石炭窯の築造実験 などを行い、科学的手法による伊万里焼(有田焼)の近代化に影響を与えた。1870年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移り、月給200ドルで雇用された。翌年の文部省設立と大学改組に伴い、1872年に医療系の東校(後に東京医学校、現・東京大学医学部)の数学・博物学・物理学・化学の教師となり、月給も300ドルに増額された。 1873年のウィーン万国博覧会では、事務局副総裁の佐野常民の強い要望で東校と兼任のまま事務局御用掛となった。ヨーロッパの嗜好や化学の知識を持っていたためと考えられる。役職名は「列品並物品出所取調技術誘導掛」であり、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、目録・説明の作成を行った。一例として、京都の清水焼や粟田焼について陶工を呼んで説明を受け、届いた注文品については焼成などに問題があるため不合格とし、白焼の品を事務局附属の磁器製造所(東京浅草区)で絵付けするよう指示している。なお、この処置については後に粟田焼の陶工・丹山清海から不満の声が上がっている。
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