訪日〜ウィーン万国博覧会とは? わかりやすく解説

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訪日〜ウィーン万国博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 23:41 UTC 版)

ゴットフリード・ワグネル」の記事における「訪日〜ウィーン万国博覧会」の解説

アメリカ企業ラッセル商会石鹸工場設立に当たり、パリ時代からの親友紹介した社長のトーマス・ワルシュによって、ワグネル長崎招聘された。1868年3月29日マルセイユ出発同年5月15日慶応4年4月23日)に長崎到着した。しかし製品開発うまくいかず、工場軌道乗らず廃止された。その後佐賀藩雇われ1870年4月より8月にかけて有田町窯業技術指導あたった。ここでは 石灰用いた経済的な釉薬開発 従来使われていた呉須代わる安価なコバルト顔料使用 不足を解決するための石炭窯の築造実験 などを行い科学的手法による伊万里焼有田焼)の近代化影響与えた1870年11月頃には大学南校現在の東京大学)のドイツ語教師として東京移り月給200ドル雇用された。翌年文部省設立大学改組に伴い1872年医療系の東校(後に東京医学校、現・東京大学医学部)の数学博物学物理学化学教師となり、月給300ドル増額された。 1873年ウィーン万国博覧会では、事務局副総裁佐野常民強い要望で東校と兼任のまま事務局御用となったヨーロッパ嗜好化学知識持っていたためと考えられる役職名は「列品並物出所取調技術誘導掛」であり、博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定技術指導目録説明作成行った一例として、京都清水焼粟田焼について陶工呼んで説明を受け、届いた注文品については焼成などに問題があるため不合格とし、白焼の品を事務局附属磁器製造所東京浅草区)で絵付けするよう指示している。なお、この処置については後に粟田焼陶工・丹山清海から不満の声が上がっている。

※この「訪日〜ウィーン万国博覧会」の解説は、「ゴットフリード・ワグネル」の解説の一部です。
「訪日〜ウィーン万国博覧会」を含む「ゴットフリード・ワグネル」の記事については、「ゴットフリード・ワグネル」の概要を参照ください。

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