訪日以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 23:41 UTC 版)
「ゴットフリード・ワグネル」の記事における「訪日以前」の解説
1831年、ハノーファー王国ハノーファーで生まれる。父は官吏で、母と姉(妹)、弟がいた。成績はきわめて優秀だったが生涯を通じて非常に内気な性格であったといわれる。1846年に15歳で工芸学校に入学し、2年後の卒業とともに鉄道会社に勤める。しかし恩師の強い勧めを受けて数学・自然科学の教師を目指し、1849年にゲッティンゲン大学に入学した。この大学には2年間在籍し、数学者カール・フリードリヒ・ガウス、ペーター・グスタフ・ディリクレ や物理学者ヴィルヘルム・ヴェーバーらの指導を受け教員の資格を得た。さらにベルリン大学で1年間学んだ後、「ポテノーの問題(英語版)」に関する学位論文をゲッティンゲン大学に提出し、ガウスらの審査を受けて21歳で数理物理学の博士号を取得した。 卒業後の1852年に政治的理由からパリに移住し、ドイツ語の個人教授や寄宿学校の数学教師を経てパリ中央電信局の翻訳官となる。ここでフランス語をはじめ、イタリア語・デンマーク語など各国の言語を習得する が、1857年にリウマチを患い、これが生涯の持病となる。この後、政治家サンティレール(英語版)の秘書を経て1859年頃にスイスのラ・ショー=ド=フォンで工業学校の教師を務める。ここで機械工作などの研究を行うが、学制改革に伴って1864年に職を辞して義兄(弟)と建設事業を興す。リウマチの悪化で翌年に仕事をやめてカールスバート(現・カルロヴィ・ヴァリ)で療養した後、パリで弟と化学工場を始めるが失敗に終わる。
※この「訪日以前」の解説は、「ゴットフリード・ワグネル」の解説の一部です。
「訪日以前」を含む「ゴットフリード・ワグネル」の記事については、「ゴットフリード・ワグネル」の概要を参照ください。
- 訪日以前のページへのリンク