西金堂の概要
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西金堂(さいこんどう)は、『興福寺流記』に引く「宝字記」によれば、天平6年(734年)、光明皇后が、その前年に没した生母橘三千代の菩提のために建立したものである。 西金堂は永承元年(1046年)の大火、治承4年(1180年)の平重衡の兵火、嘉暦2年(1327年)の大火で焼け、その都度再建されたが、江戸時代の享保2年(1717年)の焼失以降は再建されなかった。 「宝字記」によれば、奈良時代の西金堂には釈迦如来像、両脇侍像、梵天・帝釈天像、十大弟子像、八部神王(八部衆)像、羅睺羅像、四天王像が安置され、さらに金鼓(こんく)と波羅門像があった。釈迦如来を中心に守護神像、弟子像などを配置したこれらの諸仏は『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげほん)に説く釈迦浄土を表したものである。「夢見金鼓懺悔品」によると、釈迦の説法を聞いた妙幢菩薩は、その夜の夢の中で、日輪のように光り輝く巨大な金鼓を見た。その光の中から無数の仏が生まれ法を説いた。一人の婆羅門が桴(ばち)をもって金鼓を叩くと、その大音声(だいおんじょう)は人々に懺悔せよと説くかのようであった、というものである。 13世紀前半頃、すなわち治承の兵火後の成立とみなされる興福寺曼荼羅図(京都国立博物館蔵)の西金堂の部分を見ると、釈迦如来像及び両脇侍像、八部衆像、十大弟子像、四天王像、金剛力士像一対、金鼓と婆羅門像、十一面観音像、羅睺羅像などが確認される。羅睺羅像は、十大弟子像の中にも同名の像があるが、それとは別の童形の坐像である。 西金堂旧所在の仏像のうち、八部衆像8体と十大弟子像のうち6体は、奈良時代の像が興福寺に現存する。ただし、これらの像については、西金堂当初像ではなく、額安寺(大和郡山市)から移されたものだとする説もある。「宝字記」にある金鼓は、現在「華原磬」(かげんけい)という名称で国宝に指定されているものがこれに当たると考えられ、奈良時代または唐時代の作とされるが、後世の補修部分も多い。西金堂の鎌倉復興期の像で現存するものは、本尊釈迦如来像の頭部・両手・光背の一部のほか、金剛力士像2体、天灯鬼・龍灯鬼像、薬王・薬上菩薩像がある(薬王・薬上菩薩像は中金堂に安置)。 『類聚世要抄』所収の興福寺別当信円の日記に西金堂釈迦像を運慶作とする記載があることから、現存する木造仏頭を運慶作とする説がある。ただし、この仏頭と、運慶が同じ頃に造立した静岡・願成就院や神奈川・浄楽寺の諸仏との間には作風の違いがあることから、仏頭の作者比定については、なお慎重な意見もある。
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