西洋版
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 05:31 UTC 版)
19世紀には、さまざまな西洋の陶芸家が、大きな評判を得ていた中国の釉薬を模倣しようと試みたが、磁器も炻器も複製は困難だった。フランスでは、1882年にセーヴルの窯が実験を始めた。1885年、エルネスト・シャプレはアビランド製陶所(英語版)からの資金援助を受けて成功を収め、ピエール=エイドリアン・ダルパイラットも同様のものを作れるようになった。Chapletは、1889年のパリ万国博覧会で、その釉薬を評価され金メダルを得た。 マサチューセッツ州チェルシーにあるチェルシー・ケラミック・アート・ワークスのアメリカ人ヒュー・C・ロバートソン(英語版)は、1876年のフィラデルフィア博覧会で東洋の釉薬に興味を持ち、釉薬に没頭し、残りの人生すべてにおいて執着することとなった」。彼はとうとう1888年にサン・ド・ブフの一種を開発し、サン・ド・チェルシーと呼ばれたが、翌年には「サン・ド・ブフ釉薬の高価な実験を繰り返してほぼ無一文になり」、窯を閉じた。 イギリスでは、1900年頃にスメスウィックのラスキン陶器が釉薬を作り上げたが、1935年の窯の閉鎖時にすべての製法は破棄された。他にも、バーナード・ムーアの工房においても英国でサン・ド・ブフが生み出された。ストーク=オン=トレントにあった彼の窯は、1905年から1915年の事業終了まで、フランベ釉薬専門だった。 1903年から、英国の建築家レスリー・グリーンは、多くの事業者からなるロンドン地下鉄システムの、ほとんどの駅の外装に用いるガラス張りの建築テラコッタタイルと装飾要素に、産業用のしっかりしたサン・ド・ブフ釉薬を使用した。彼の雇い主、ロンドン地下電気鉄道はグレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道、ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道とチャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道を、つまり現在のピカデリー線、ベーカールー線とノーザン線に対応する部分を建設した。タイルはリーズ・ファイアクレイ社が作成した。 エルネスト・シャプレによる正方形の花瓶、フランス、1889年頃。釉薬を大胆にかすれさせている。 ヒュー・C・ロバートソン(英語版)による花瓶、チェルシー・ケラミック・アート・ワークス、1888年–89年。 ロックウッド・ポトリー・カンパニー(英語版)、米国、1899年。 ラスキン・ポトリー(英語版)、英国、1925年。 フランシスカン・セラミックス(英語版)、米国、1934年以降。 アメリカの陶芸家、ファンス・フランク(フランス語版)(1931–2008)は、パリのワークショップで銅の赤い釉薬を広範に研究し、明代の技法を再発見した。これは中国美術のパーシバルデビッド財団によって支援されていた。
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