西洋流砲術を導入する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 04:20 UTC 版)
その後、英龍は長崎に赴いて高島秋帆に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。これが実現し、英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、「江川塾」を江戸に開き、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)・伊東祐亨などが彼の下で学んでいる。 天保14年(1843年)に水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘にも評価され、嘉永6年(1853年)、ペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、正弘の命で品川台場(お台場)を築造した。銃砲製作のため湯島大小砲鋳立場を設立し、後の関口製造所の原型となっている。また鉄鋼を得るため反射炉の建造に取り組み、息子の代で完成している(韮山反射炉)。 だが、正弘は海防強化には終始消極的で、忠邦が罷免され正弘が老中として実権を握ると、海防強化策は撤回され英龍も鉄砲方を解任されているとの指摘もある。品川沖台場の築造も翌嘉永7年(1854年)に日米和親条約が調印されると、11基のうち5基が完成しただけで工事の中止が決定されている。 造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に加え、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、あまりの激務に体調を崩し、安政2年(1855年)1月16日に本所南割下水(現東京都墨田区亀沢1丁目)にあった江戸屋敷にて病死。享年55(満53歳没)。 跡を継いだ長男・英敏が文久3年(1863年)に農兵軍の編成に成功した。また、英敏の跡を継いだ英武(英龍の5男)は韮山県県令となった。娘の英子は木戸孝允の養女となって河瀬真孝に嫁ぎ、外交官夫人として夫を支えた。
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