蝦夷征討・粛慎討伐
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斉明天皇4年(658年)4月から斉明天皇6年(660年)5月にかけて、越国守であった比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行ったことが『日本書紀』に記されている。これらには重複を指摘する意見のほか、いつから30年ほど前には一部の事象のみを史実とする著書もあった。また、渡島をはじめ、日本書記に書かれている地名を元に明治期に制定された地名があるため、同定には慎重な判断を要する。 斉明天皇4年(658年)4月に船軍180隻を率いて蝦夷を討ち、飽田・渟代二郡の蝦夷を降伏させる。降伏した蝦夷の酋長・恩荷に小乙上の冠位を与えるとともに、渟代・津軽二郡の郡領に定めた。また、有間浜で渡島の蝦夷を饗応している。同年7月には蝦夷200人余りが朝廷に参上して物資を献上するとともに、饗応を受けた。 同年、比羅夫は粛慎(みしはせ)を平らげ、生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上する。粛慎(みしはせ)の出自については諸説ある。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。 斉明天皇5年(659年)3月には船軍180艘を率いて再び蝦夷を討つ。比羅夫は飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を一ヶ所に集めて饗応し禄を与える。また、後方羊蹄(シリベシ)に至り、蝦夷の要請を受けて当地に政所を置き郡領を任命して帰った。「後方羊蹄」の具体的な場所は明らかでないが、余市説(後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)があるほか、江戸時代末期の探検家・松浦武四郎は北海道の尻別川流域と比定し、同地を後志国(しりべしのくに)、同地の山を後方羊蹄山(しりべしやま)と名付けた。 この頃、再び粛慎と戦って帰還し、虜49人を朝廷に献じたともいう。 斉明天皇6年(660年)3月に船軍200艘を率いて粛慎を討つ。比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考える説がある)のほとりで、粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島(へろべのしま。粛慎の本拠地を樺太や、奥尻島とする説などがある)まで追って戦い、能登馬身龍が戦死するもこれを破る。同年5月に蝦夷50人余りを献じ、粛慎の47人を饗応した。
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