藤蔭流の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:49 UTC 版)
1931年、三代目藤間勘右衛門から『藤間』姓を返せと言われて従い、『藤蔭流家元藤蔭静枝』を名乗り、日本舞踊協会から脱退した。 その後数年間の藤蔭会は、長唄、清元などの邦楽のほかに、フォーレ、オネゲル、マスネ、リムスキー=コルサコフ、フローラン・シュミットらの曲も使った。洋装の舞いも舞った。 1937年以降の戦争下では前衛は迎えられず、愛国行進曲や君が代変奏曲や紀元二千六百年頌歌も踊らねばならなくなった。その新体制の大同団結の1940年、三代目藤間勘右衛門改め藤間勘斎に詫びて和解した。 1943年(昭和18年)、63歳のとき第50回藤蔭会を開いて舞踊生活50年を祝う。1945年の敗戦前後の混乱は、新潟市と柏崎市に避けた。1941年に新築した霞町の家は焼け残った。 第51回藤蔭会は1946年の晩秋だったが、敗戦後は、占領軍のキャンプで門弟と日舞を披露する仕事ができた。1948年春ごろ、六本木3丁目に新築した家へ移った。1949年の第52回は古稀の賀を兼ねた。その後も藤蔭会をほぼ年一回開いたけれども、覇気は次第に衰えて温習会的になって行った。1953年、東京新聞から初回の舞踊芸術賞を贈られた。 1956年(昭和31年)、第58回で喜寿を祝われ、翌1957年、「藤蔭静枝」の名跡を門下の藤蔭美代枝に譲り、隠居して「藤蔭静樹」を名乗った。初代と二代目とは六本木の家に住んだがのち不和になり、1958年に静樹は「藤蔭流宗家」を樹て、藤蔭流は宗家派と二代目派とに分裂した。
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