藤蔭会の設立
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1917年、勘右衛門の諒解を得て同門の2人と勉強会「藤蔭会」を催し、回を重ねて藤間静枝の藤蔭会となり、舞踊に専念するため、1919年芸妓を廃業した。次第に新演出を増やし、1921年の新作『思凡』の客席には、六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎、六代目尾上菊五郎、七代目坂東三津五郎、二代目市川猿之助、などの歌舞伎俳優も集まった。 藤蔭会には、和田英作、田中良、北原白秋、本居長世、山田耕筰、中山晋平、町田嘉章、吉田清風、宮城道雄、佐藤千夜子、勝本清一郎、岡田嘉子、初代水谷八重子らが協力した。1924年の『蛇身厭離』、翌年の『訶梨帝母』は勝本清一郎の野心作とされた。静枝は勝本が山田順子と相愛になるまで関係があった。 静枝の男性遍歴は、『断腸亭日乗』1940年12月1日条に荷風が書いている。 1928年(昭和3年)(48歳)、単身シベリア鉄道経由でパリへ行き、居合わせた吉屋信子の世話になり、ロンドンへも連れ立った。明けた1929年、パリ在留の画家らの企画により、シャンゼリゼ通りにあったテアトル・フェミナ(Théâtre Femina)で一度公演し、帰国した。 1930年から麻布霞町(現、港区西麻布1丁目)に長く住んだ。門下には良家の子女が多かった。その秋の第20回公演の演目には、リストのハンガリー狂詩曲を使った『衆舞』やプッチーニのお蝶夫人もあった。翌年国民文芸賞を受けた。
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