藤原行成
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藤原行成は摂政藤原伊尹の孫であるが、幼くして祖父と父を失い、外祖父に育てられた。後世に三蹟の1人として知られる書家として歴史に名を残すが、能吏としても知られており、若き頃は不遇であったが源俊賢の推挙を受けて抜擢され、一条天皇の蔵人頭を6年間にわたり務め、長保3年(1001年)2月には当時3歳で前年に生母定子を失った第一皇子敦康親王の家別当に任じられるなど、天皇第一の側近として活躍した。その一方で、藤原道長の政権確立のために行った2つの出来事――中宮定子がいるにも関わらず道長の娘・彰子を一条天皇の后妃に立てて「一帝二后」を実現させたこと、第一皇子の敦康親王がいるにも関わらず道長の外孫である第二皇子の敦成親王(後一条天皇)を次期東宮に擁立したこと――は、いずれも道長の意向を受けた行成が一条天皇に迫ったことが行成の日記『権記』に記されている。また、道長が病気で一時重態になった際には行成を呼んで嫡男鶴君(頼通)の後見を依頼する程の信頼を得ていた。だが、その一方で一条天皇が死の床で最後まで側に置いたのも行成であり、また皇位継承から排除された敦康親王が20歳の若さで急死するまで親王家別当として最後まで親王を庇護したのは行成その人であった。また、公務に関しては時には強引な道長の方針と対立する場合もあった。行成は道長から厚い信頼を受ける一方で、他の3名と道長との関係と比較すると、行成と道長の間には若干の距離があったようである。なお、道長の子長家の正室には初めは行成の娘が嫁いでいたが早世し、続いて斉信の娘が嫁いでいるがやはり早世している。その後、行成は別の娘を嫁がせようとしたが道長から拒絶され、道長は実資の娘千古との縁談を進めようとしたが、今度は長家が拒絶したためにともに実現しなかったという。
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藤原行成(ふじわら の ゆきなり)
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従四位相当の蔵人頭・権左大弁(くろうどのとう・ごんのさだいべん、天皇の秘書官および太政官の職)を兼任する頭弁(とうのべん)。後に三蹟の一人に数えられる能書家。若い頃は不遇であり、装束の背中に「不死倭羅上等(ふじわらじょうとう)」と特攻服風に書いているヤンキー系。
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