華族時代
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皇族大礼服を着用した臣籍降下直前の邦英王 有爵者大礼服を着用した臣籍降下後の東伏見邦英 邦英王は、1930年(昭和5年)5月に成年となり、勲一等に叙され、同月15日、貴族院皇族議員となる。しかし、東伏見宮家の祭祀を継承するため、1931年(昭和6年)の紀元節に臣籍降下の願出をなした。この願は、皇族会議及び枢密院の諮詢を経て、允可され、同年4月4日に「東伏見」の家名を賜い、華族に列せられ、伯爵を授けられた。なお、皇族の身分を離れたことで貴族院議員の資格も消滅した。伯爵東伏見邦英となったあと、1931年(昭和6年)に、仏教の美術関係の書物として、『宝雲抄』(民友社)を刊行した。 『宝雲抄』は、1924年(大正13年)4月の春休みに奈良に行ったときの印象や感想を『学習院輔仁会雑誌』に「奈良より」と題して投稿したのをきっかけに、4年間掲載されたものを、ひとつの本にしたものである。 1931年(昭和6年)に学習院高等科を、次いで1934年(昭和9年)に京都帝国大学文学部史学科を卒業後、1939年(昭和14年)度から8年間、同大学で古代美術史などの講師を務めている。また1931年、ピアニストとして姉・大谷智子が作詞・歌唱した「同朋の歌」レコードのピアノ演奏を担当、翌1932年(昭和7年)には近衛秀麿指揮の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)とともにハイドンのピアノ協奏曲ニ長調の録音演奏を行った。これは、同曲の世界初録音である。この音源はローム・ミュージック・ファンデーションによりCD化されており、片山杜秀などによってアマチュア離れした技術と評されているが、彼が実際にピアノを師事した人物についての記録は残っていない。1937年(昭和12年)に横浜市磯子区の高台の上に別邸を建てる。別邸は戦後、西武グループに譲渡され、1954年(昭和29年)に横浜プリンスホテルとして開業する。
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