華族時代とは? わかりやすく解説

華族時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:46 UTC 版)

東伏見慈洽」の記事における「華族時代」の解説

皇族大礼服着用した臣籍降下直前邦英王 有爵者大礼服着用した臣籍降下後東伏見邦英 邦英王は、1930年昭和5年5月成年となり、勲一等叙され同月15日貴族院皇族議員となる。しかし、東伏見宮家祭祀継承するため、1931年昭和6年)の紀元節臣籍降下の願出をなした。この願は、皇族会議及び枢密院諮詢経て允可され、同年4月4日に「東伏見」の家名を賜い、華族に列せられ、伯爵授けられた。なお、皇族身分離れたことで貴族院議員資格消滅した伯爵東伏見邦英となったあと、1931年昭和6年)に、仏教美術関係の書物として、『宝雲抄』(民友社)を刊行した。 『宝雲抄』は、1924年大正13年4月春休み奈良行ったときの印象感想を『学習院輔仁会雑誌』に「奈良より」と題して投稿したのをきっかけに、4年掲載されたものを、ひとつの本にしたものである。 1931年昭和6年)に学習院高等科を、次いで1934年昭和9年)に京都帝国大学文学部史学科を卒業後、1939年昭和14年)度から8年間、同大学で古代美術史などの講師務めている。また1931年ピアニストとして姉・大谷智子作詞歌唱した「同朋の歌」レコードピアノ演奏担当、翌1932年昭和7年)には近衛秀麿指揮新交響楽団NHK交響楽団前身とともにハイドンピアノ協奏曲ニ長調録音演奏行った。これは、同曲の世界初録音である。この音源はローム・ミュージック・ファンデーションによりCD化されており、片山杜秀などによってアマチュア離れした技術評されているが、彼が実際にピアノ師事した人物についての記録残っていない。1937年昭和12年)に横浜市磯子区高台の上別邸建てる別邸戦後西武グループ譲渡され1954年昭和29年)に横浜プリンスホテルとして開業する

※この「華族時代」の解説は、「東伏見慈洽」の解説の一部です。
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