華族制度の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 10:18 UTC 版)
11月20日、旧・諸侯の華族は原則東京に住居することが定められた。ただし地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。また同月には旧・公家の華族の禄制が定められ、また華族はすべて地方官の貫属とする旨が布告された。 1871年(明治4年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ってその模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。 1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。 1876年(明治9年)、全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別なく、系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。 1878年(明治11年)1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。 岩倉は政治的には伊藤と協力関係にあったが、伊藤や木戸が構想した将来の議会上院形成のために華族を増員すること、具体的には維新の功労者を華族に加えることには強い拒否反応を示した。岩倉はそもそも華族が政治に参加することに反対だった。しかし1881年(明治14年)に国会開設の詔が出されると、岩倉もようやく伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は、伊藤を中心に設置された制度取調局で華族制度の整備が進められた。
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