華族女学校教授となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:25 UTC 版)
明治18年(1885年)には伊藤の推薦で、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった(1885年〈明治18年〉9月、華族女学校教授補、宮内省御用掛、奏任官(高等官)に准じ取扱い、年俸420円)。さらに明治19年(1886年)2月には職制変更で嘱託に、同年11月には華族女学校教授となった(高等官6等、年俸500円)。同校の女性教師のうち、高等官に列するのは学監の下田歌子(年俸1500円又はそれ以上)と梅子のみであった。梅子は華族女学校で3年余り教えたが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われる[要出典]。
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