華北王朝の興亡
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劉淵は匈奴の羯族出身である石勒や漢人の将軍王弥を従えて山西一帯を攻略し、308年には漢皇帝を名乗る。劉淵は310年に死去し、一旦は長男の劉和が跡を継ぐが、人望が無く異母弟の劉聡が取って代わった。劉聡は翌311年に晋の首都洛陽を落として恵帝の弟の懐帝を虜にし、晋を実質上滅ぼした(永嘉の乱)。その後、長安では残党によって懐帝の甥の愍帝が擁立され、漢に対して抵抗を続けたが、316年にこれを滅ぼして、晋を完全に滅亡させた。 晋の皇族であった司馬睿はそれ以前より南の建業(後に建康と改称)にいたが、愍帝が殺されたことを聞くと、帝位に就いて晋を再興した。これは東晋と呼ばれ、前趙に滅ぼされた王朝は西晋と呼ばれる。 318年に劉聡は死去し、後継を巡って争いが起きる。これは最終的に族子(同族内の子供の世代にあたる者のこと)の劉曜によって収められ、劉曜は即位して国号を趙(石氏が建国した後趙と区別するため、前趙と史称される)と改める。 しかし、東方の攻略に出されていた石勒は襄国(現在の河北省邢台市)に拠って自立し、翌年には大単于趙王を名乗った。石勒はこの時鮮卑の拓跋部・段部と結んで王浚や劉琨を討伐して河北・河南を領有し、山東の曹嶷も滅ぼし、洛陽を境に前趙とにらみ合った。その後10年ほど睨み合いが続くが、劉曜は次第に酒色に耽るようになった。 328年に劉曜は後趙に占領された洛陽を奪還するべく親征するが、石勒の従甥の石虎の軍に大敗して捕虜となり処刑された。残った太子の劉煕も翌年に石虎に敗北して殺され、前趙は滅亡、後趙が華北をほぼ統一した。石勒は翌330年に天王を名乗り、さらに皇帝に即位した。 石勒は333年に死去し、息子の石弘が即位するが、石虎が廃位・殺害して自ら即位した。石虎は鄴に遷都し、鮮卑段部を滅ぼして後趙の最盛期を作った。一方で残虐な振る舞いが多く、溺愛していた息子の石韜が太子石宣によって殺されると、石宣を含めた一族を多数殺害した。石虎が349年に死去すると太子の石世が即位したが、間もなくして石斌に殺害され、彼の兄弟たちによる後継者争いが起きた。 この時に漢人で石虎の養孫の石閔は後趙の皇族らを殺して簒奪し、国号を魏と定めた。その際に、元の名である冉閔に戻している。彼が建てた国は、後に建国された北魏などと区別するために冉魏と史称されるが、短命に終わったため五胡十六国の中には入っていない。後趙の残党はその後しばらく抵抗したが、351年に完全に滅亡した。 冉閔は石氏を筆頭とした羯族の連年の戦争と略奪を背景として、旧後趙領の漢人に異民族への復讐を呼びかける檄文を飛ばした。結果、漢人諸侯の決起と胡族同士の戦いによって数十万に上る胡人が殺害され、残った異民族は故郷への脱出を図った。史書によると、無事に帰れた者は十に二、三と言われるほどであったという。しかし、東晋に対しても敵対したため、一部の漢人からも背かれた。 その頃、遼東では既に337年に鮮卑慕容部が慕容皝の元で前燕を建てており、次男の慕容儁が跡を継いでいた。冉魏の混乱を見た前燕は中原へと進出を図り、慕容儁の弟の慕容恪は冉魏軍に連勝し、352年に冉閔を捕らえて殺害、冉魏を滅ぼして龍城から鄴に遷都、慕容儁は皇帝に即位した。
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