華北王朝の興亡とは? わかりやすく解説

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華北王朝の興亡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:57 UTC 版)

五胡十六国時代」の記事における「華北王朝の興亡」の解説

劉淵匈奴羯族出身である石勒漢人将軍王弥従えて山西一帯攻略し308年には漢皇帝名乗る劉淵310年死去し、一旦は長男劉和跡を継ぐが、人望無く異母弟劉聡取って代わった劉聡は翌311年に晋の首都洛陽落として恵帝の弟の懐帝にし、晋を実質滅ぼした永嘉の乱)。その後長安では残党によって懐帝の甥の愍帝擁立され、漢に対して抵抗続けたが、316年にこれを滅ぼして、晋を完全に滅亡させた。 晋の皇族であった司馬睿それ以前より南の建業(後に建康改称)にいたが、愍帝殺されたことを聞くと、帝位に就いて晋を再興した。これは東晋呼ばれ前趙滅ぼされ王朝西晋呼ばれる318年劉聡死去し後継巡って争い起きる。これは最終的に族子同族内の子供世代にあたる者のこと)の劉曜によって収められ劉曜即位して国号を趙(石氏が建国した後趙区別するため、前趙と史称される)と改める。 しかし、東方攻略出されていた石勒襄国現在の河北省邢台市)に拠って自立し翌年には大単于趙王名乗った石勒はこの時鮮卑拓跋部段部結んで王浚劉琨討伐して河北河南領有し山東曹嶷滅ぼし洛陽を境に前趙とにらみ合ったその後10年ほど睨み合いが続くが、劉曜次第酒色耽るようになった328年劉曜後趙占領され洛陽奪還するべく親征するが、石勒従甥石虎の軍に大敗して捕虜となり処刑された。残った太子劉煕翌年石虎敗北して殺され前趙滅亡後趙華北をほぼ統一した石勒は翌330年天王名乗り、さらに皇帝即位した石勒333年死去し息子石弘即位するが、石虎廃位殺害して自ら即位した石虎は鄴に遷都し、鮮卑段部滅ぼして後趙最盛期作った一方で残虐な振る舞い多く溺愛していた息子石韜太子石宣によって殺されると、石宣含めた一族多数殺害した石虎349年死去する太子石世即位したが、間もなくして石斌殺害され彼の兄弟たちによる後継者争い起きた。 この時に漢人石虎養孫石閔後趙皇族らを殺して簒奪し、国号を魏と定めたその際に、元の名である冉閔戻している。彼が建てた国は、後に建国され北魏などと区別するために冉魏と史称されるが、短命に終わったため五胡十六国中には入っていない。後趙残党その後しばらく抵抗したが、351年に完全に滅亡した冉閔は石氏を筆頭とした羯族連年戦争略奪背景として、旧後趙領の漢人異民族への復讐呼びかける檄文飛ばした結果漢人諸侯決起と胡族同士戦いによって数十上る胡人殺害され残った異民族故郷へ脱出図った史書によると、無事に帰れた者は十に二、三と言われるほどであったという。しかし、東晋に対して敵対したため、一部漢人からも背かれた。 その頃遼東では既に337年鮮卑慕容部慕容皝の元で前燕建てており、次男慕容儁が跡を継いでいた。冉魏混乱見た前燕中原へと進出図り慕容儁の弟の慕容恪冉魏軍に連勝し352年冉閔捕らえて殺害冉魏滅ぼして龍城から鄴に遷都慕容儁皇帝即位した

※この「華北王朝の興亡」の解説は、「五胡十六国時代」の解説の一部です。
「華北王朝の興亡」を含む「五胡十六国時代」の記事については、「五胡十六国時代」の概要を参照ください。

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