華南方面の攻勢
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「冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事における「華南方面の攻勢」の解説
11月下旬、援蔣ルートを遮断する目的で、第21軍の第5師団と台湾混成旅団が広西省の南寧を占領した(南寧作戦)。中国軍は南寧の奪回を企図して、中央軍14個師(約10万人)を湖南方面から広西省へ南下させた。この中には中国軍唯一の機械化部隊(第5軍)も含まれていた。 12月17日、南寧北東方面から合計25個師の中国軍が押し寄せ、特に崑崙関の陣地を巡って激戦となった。崑崙関では1個大隊を基幹とする日本軍部隊が守備していたが、そこへ戦車を伴った中国兵が殺到して激しい接近戦が展開された。18日、第5師団長今村均中将は歩兵第21連隊(連隊長:三木吉之助大佐)を崑崙関へ急派させた。続いて20日には中村支隊(支隊長:中村正雄中将)を派遣させたが、南寧-崑崙関間の連絡線は遮断され、中村支隊も中国軍の攻撃により前進を阻止されてしまった。それから約10日間の激戦で、補給と増援を絶たれ中村支隊長以下多くの損害を出した日本軍は、12月30日崑崙関の放棄を決定し後方の陣地へ撤退した。(崑崙関の戦い) 当時、第21軍主力は広東省で翁英作戦を展開していた。しかし南寧方面の戦況が楽観を許さないようになると、作戦を早期に打ち切って新たに第18師団と近衛混成旅団を広東から南寧方面へ転用した。そして翌1940年(昭和15年)1月28日から一斉に反撃作戦に転じ、この方面から中国軍を駆逐した(賓陽作戦)。
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