華南方面の攻勢とは? わかりやすく解説

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華南方面の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 02:10 UTC 版)

冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事における「華南方面の攻勢」の解説

11月下旬援蔣ルート遮断する目的で、第21軍第5師団台湾混成旅団広西省南寧占領した南寧作戦)。中国軍南寧奪回企図して、中央軍14個師(約10万人)を湖南方面から広西省南下させた。この中には中国軍唯一の機械化部隊第5軍)も含まれていた。 12月17日南寧北東方面から合計25個師の中国軍押し寄せ、特に崑崙関の陣地巡って激戦となった崑崙関では1個大隊基幹とする日本軍部隊守備していたが、そこへ戦車伴った中国兵殺到して激し接近戦展開された。18日第5師団長今中将歩兵第21連隊連隊長三木吉之助大佐)を崑崙関へ急派させた。続いて20日には中村支隊支隊長:中村正雄中将)を派遣させたが、南寧-崑崙関間連絡線遮断され中村支隊中国軍攻撃により前進阻止されてしまった。それから約10日間の激戦で、補給増援絶たれ中村支隊長以下多く損害出した日本軍は、12月30日崑崙関の放棄決定し後方陣地撤退した。(崑崙関の戦い当時第21軍主力広東省翁英作戦展開していた。しかし南寧方面戦況楽観許さないうになると、作戦早期打ち切って新たに第18師団近衛混成旅団広東から南寧方面転用した。そして翌1940年昭和15年1月28日から一斉に反撃作戦転じこの方面から中国軍駆逐した賓陽作戦)。

※この「華南方面の攻勢」の解説は、「冬季攻勢 (1939-1940年)」の解説の一部です。
「華南方面の攻勢」を含む「冬季攻勢 (1939-1940年)」の記事については、「冬季攻勢 (1939-1940年)」の概要を参照ください。

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